偶像を極限までに高めたステージ―堂本光一主演『SHOCK』レビュー
アイドルをこれほどまでに表現したステージが他にあるのだろうか。初めて観劇した堂本光一くん主演ミュージカル『endless SHOCK』に、私は心を震わせていた。アイドル、つまり偶像が偶像として輝き続ける所以が、そこには詰まっていた。
主演はジャニーズ事務所所属のアイドル、KinKi Kids・堂本光一くん。作・構成・演出が、今年7月に他界したジャニー喜多川氏だ。この舞台を目の当たりにし、なぜジャニー喜多川氏が多くのジャニーズアイドルやファンに慕われるのかも分かったような気がする。
(以下、敬称略)
■観劇の機会は偶然
私はジャニーズファンではない。面白いと思うアイドルはいるものの、社会現象や労働問題の一つとしての興味の方が大きい。そんな私が『endless SHOCK』を観劇したきかっけは、本当に偶然だ。
たまたま友人の友人が申し込んだチケットが一枚余っていた。それだけだ。会場が梅田芸術劇場だったため、比較的家が近い私に声をかけてもらった。現在、『SHOCK』のチケットは日本一手に入りにくいと言われている。断る理由はない。
何より、昔から私は堂本光一を日本一の貴公子だと思っている。直視できない程、美しく輝く男性。体調が優れず、人生も上手くいかない私に残されたのは、美しいものを「美しい」といえる心だけ。行くしかない。
結果、行けて良かった。体調的には厳しかったが、とても勉強になった。プロが「プロ」と呼ばれるために必要なことが詰まっており、ジャニーズ好きでない人にも薦めたい舞台だ。
もし、この『endless SHOCK』を観た上でも「たかがジャニーズ」とバカにする人がいるなら、その人はもう他の舞台も観ない方が良い。それほど、素晴らしいものだった。
■完成までの凄まじい努力がうかがえる舞台
堂本光一は美しく輝く貴公子で間違いない。生来持っているものもあるが、それは彼自身とその周囲の絶え間ない努力によって生み出されたものである。これを改めて確認させてくれたのが『endless SHOCK』だ。
例えば、劇中で堂本光一はワイヤーで宙づりにされるのだが、吊るされている間、ひと時もポーズを崩さない。これは並みの筋力ではできない技だ。自分の体重を支えるのは、細いワイヤーのみ。否応なく体は重力により地面に引っ張られる。それに抗いポーズを決めるのだ。これによりスポットライトが生み出すシルエットすらも美しくなる。壁に映し出される影まで計算されていることに、驚きを隠せなかった。
この一瞬を生み出すための稽古に、どれだけ時間をかけ精神を削ったのか。だが、そんな苦労を微塵も感じさせない余裕の舞台。夢の世界を紡ぎ上げていた。つまり、努力によって積み上げたものこそが「アイドル」だと見せつけられたのだ。私生活をウリにしたり、スキャンダルで世間を賑わしたりするのではない、本当の意味のアイドル。
アイドル(idol)とは日本語に訳すと「偶像」だ。そう、信仰の対象となる像を意味する。
■『endless SHOCK』のテーマは「アイドル道」
『endless SHOCK』はミュージカルであるため、一応ストーリーはある。だが、私は観ていてストーリーは添え物のように感じた。主演の堂本光一を彩るエッセンスの一つだ。というのも、堂本光一が演じる「コウイチ」と堂本光一自身がオーバーラップするようなストーリー展開だからだ。
舞台はオフブロードウェイ。小さな劇場で公演を続ける堂本光一演じる「コウイチ」と仲間たち。ある時、新聞で話題になり一気にオンブロードウェイの舞台へ。しかし、哀しい行き違いにより「コウイチ」は舞台で大きな怪我を負ってしまう。簡単なあらすじは以上だ。もっと簡単に説明すると「舞台人の生き様と死に様」といえる。
主役の「コウイチ」は堂本光一自身ではない。だが、ファンが「アイドルの光一くんにはこうあって欲しい」という姿が描かれている。舞台の「コウイチ」は後輩から目標とされる役者。女性に好意を抱かれても舞台を優先する熱血漢だ。そして、何より舞台を愛し、常に良いものを生み出そうと思考を巡らせている。私がファンであれば、堂本光一にこうあって欲しいと願うだろう。
これは作者であるジャニー喜多川の理想のアイドルでもあるのではないだろうか。アイドルは舞台を愛し、舞台のことを常に考えていて欲しい。そして、舞台で思い切り輝いて欲しい。その理想を体現したのが、堂本光一主演の『endless SHOCK』のように感じられた。
しかし、アイドルの光の部分だけを描いていては片手落ちだ。
■漆黒の闇があってこそ白銀に輝く世界がある
ジャニー喜多川は過去の報道によると、決して褒められた人物ではないようだ。裁判を起こされたこともある上に、国会で問題にされたこともある。だが、これは彼自身の探求心の強さが引き起こしたことではないかと推察する。悪いように表現すると「欲深さ」ともいえる。
ただこの欲深さは、彼の理想があるからこそ生じるもの。理想を体現するための一環で、様々な事案が起きたと私は考える。この理想を描いている時のジャニー喜多川は、世間でいわれているような悪人ではないはずだ。
人間は薄っぺらい紙切れではない。複雑な多面体であり、人によって見える部分が違う。光が当てられる部分でも、見え方は変わってくる。これも『endless SHOCK』では描かれていた。ジャニー喜多川が、生身の人間を信仰する「アイドル」を考えた上で導き出した答えなのだろう。
劇中、普通なら見せたくないであろう人間の醜い部分を堂本光一は演じていた。嫉妬や恐れ、傲慢。もし、これが舞台でなければ幻滅してしまうようなものだ。でも、これがあるからこそ人間だといえる。
人間の醜い部分はある種の絶望である。『endless SHOCK』ではその絶望を見せつけた上で、再び希望を見せる演出を採用していた。これも様々な経験を積んだ、ジャニー喜多川の理想ではないだろうか。パンドラの箱の底には希望があったように。
■信仰とは向き合うこと
日本におけるアイドルとは、信仰の一種だ。アイドル、つまり偶像を信仰している。信仰とは突き詰めれば、自分と向き合うための術。偶像を通し、人間としての尊厳を見つめる行為である。
『endless SHOCK』を観劇している多くは中年以上の女性。日ごろ、不満も多く体調の不具合も出てくる年齢。それでも、舞台に向かっている間は穏やかでいられる。堂本光一を通じて自分の中にある人間として大切なものが引き出されるからだ。
その大切なものとは、好きな人に好きといえる素直さや、美しいものを美しいといえる感受性の豊かさだ。堂本光一などアイドルを信仰していなければ、普段は出てきにくい感情である。そして、この大切なものを守るために必要なものにも気づく。それは「秩序」だ。
秩序なくそれぞれが自分勝手に振る舞っていては、混乱しか生み出せない。そうなると自分の大切なものも、混乱の渦に呑まれる危険性が出てくる。これを彼女らは知っているため、観劇前でも観劇中でも、終演後も静かに列を作り並ぶ。この姿も大変美しかった。
これは偶像と向かい合うことにより、背筋が伸びているからだろう。自分を律し、その時その場で正しい行動が取ることができる。これこそが信仰の重要な部分だと、私は思う。
■アイドルの誠意を見せてもらった『endless SHOCK』
アイドルとは信仰である。信仰の対象であるから、並みの人間ではあってはならない。よって、信仰に足る才能を持ち得ていないと、アイドルとはいえない。堂本光一主演『endless SHOCK』は信仰に十分に足る舞台であった。
仏教でいうなれば「仏法僧」が揃った状態だ。「仏」はジャニー喜多川、「法」は『endless SHOCK』、「僧」は観客だ。これは中々揃うものではない。現在のアイドルビジネスは、性を売り物にした幼稚な拝金主義でもあるからだ。
しかし、『endless SHOCK』は違う。確固たる技術で芸を魅せた。主演の堂本光一のみならず、オーケストラや照明係など裏方も一流のプロフェッショナルだ。プロの技術を惜しみなく披露することは、観客に対する誠意といえる。
彼らからの最大限の誠意を受け、私はこのように感想文を書いている。書かねばならないと思い筆を執った。
素晴らしい舞台だった。叶うならば再び目にしたい。
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コラムニスト/コンテンツライター 広島県安芸郡海田町出身、大阪府高槻市在住。平成17年7月より、コラムニスト・ライターとして活動開始。恋愛記事や雑学記事から果てはビジネス文書まで、幅広く手掛ける。元・旭堂花鱗。