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日記2.12


オーケストラのコンサートを観に行った。

クラシックに感動すると言う人もいるけれど、私はどう感動するのかあまりわかっていない。音に圧倒されるという意味での感動はもちろんあるけれど、私が知ってしまった"感動"にはとても届かなくて、それを感動と呼んでいいのかわからない。小さい頃は純粋に「すごいなあ」と感じていただけだったけれど、あれから20年も経てば感じ方も変わっている。

私はもう誰かの人生にしか感動できなくなっている。
作品を通して垣間見る誰かの人生に。

演奏を聴きながら「この人たちはどんな人生を歩んできたんだろう」「きっと私とは真反対の恵まれた人生で、その中で彼らには彼らの苦悩があったんだろう」「そしてこれから先も、私が見れなかった景色を見ながら生きるんだろう」そんなことを考えては、彼らに降り注ぐスポットライトに高揚した、それが私の"感動"だった。

たとえば神聖かまってちゃんのように、苦しんできた人間が立つステージで彼らが浴びる光、放つ光、それらに感情移入して感動することがある。けれど今日の感動は間違いなく、全く別世界の人間に対する憧れ、自分自身には与えられなかった人生、知らずに生きて死んでゆく自分自身の人生が涙を流していたように思う。誰かの人生を生きてみたいと思う。全く逆の人生を、そこでしか出会えない感情を知りたいと思う。私にはまだ知らない感情があることを思い知る。一生かけても見れない景色があることを思い知る。

オーケストラは若い女性だけでなく、おじさんも居た。私が知っているおじさん、と言えば、日々満員電車に揺られ、宙を見つめ、5時のチャイムでおうちに帰ったあの日のことも、もうどこかに忘れてしまっているように見える。けれども今日演奏していたおじさんはひたすらに一生懸命で、演奏しながらあまりにも素早く楽譜をめくっていた。私はなんとなく中学生の頃の給食の時間、ランチルームでお椀いっぱいに注がれたお味噌汁を溢さないようにそうっと運んでいた男の子を思い出す。あまりにも私が彼を見つめていたから、その視線に気付いた男の子と目があった瞬間に彼はお味噌汁を溢し、男の子の学ランがびしょ濡れになり、その後二度とこちらを見ずに目を伏せてしまった男の子と何となく気まずい時間が流れたあの一瞬のことを思い出す。

普通に生活していて、一生懸命なおじさんの姿を見る機会なんてほとんどなく、今日は一生懸命なおじさんを見れて良かったなと思った。

表現をする人間には、王子様やお姫様になれる人と、そうでない人がいる。羽生結弦が王子様なら、今日のおじさんは可愛い魔法使いだった。

指揮者のあまりにもすごい表現力に圧倒され、その動きに注目していると、ふとエレカシの宮本浩次が思い浮かんで、宮本浩次がオーケストラの指揮者をやったらどれほどの表現力になるだろう、楽器一つは吹っ飛ぶだろうなぁ、そのまま宮本浩次ごと天井に吹っ飛ぶんじゃないかな、と妄想していた。

おわり。

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