見出し画像

«善悪のシミュレーション»:『モービウス』

”善と悪は、相対的な座標系でしかない”。それは、映画においてもリアルにおいても、ある種の共通規格となった。彼は、«力»を制御できずに力のないものを殺めることで自らを«悪»であると認識したり、自らと同等の«悪»を消化することでヒロイックに贖罪をしたりと、善悪の彼岸をめまぐるしく往来している。そんな倫理的分裂症ぎみの天才科学者が主人公の超人系映画『モービウス』。多視点世界を表現する映画の作品群ほど、それこそマルチバース化するプラットフォームの整理に有用ではないだろうか。表象の構図の知覚にも、体験価値の定義にも、私たち消費者の欲望の分解にも示唆的なテクストである。

もうほとんどネタバレ前提。設定や描写の省略も甚だしい。これも、鑑賞者が予備的知識をこしらえてのことだろうと。表象の構図を把握したり、その振る舞いを観察することは、映画体験を説明するための言説としては、肩身が狭くなってきている。映画館が鑑賞者に提供するしぐさは、”観る”ではないのだろう。そのしぐさとは、”没入体験である”という意見は耳に親しくなってきた。没入体験の定義への解像度も高くなってきている。コンテンツを体験するプラットフォームの選択肢も多様化し、体験環境ごとの優位性も、人々はおぼろげながら肌感覚で把握しているのである。

その空間特有の経験とは何だろうか。映画館に自らの身体をゼロ座標とした、«他者»の座標系の把握であるとは言えないだろうか。映画館への客足が減少することは当然ではないだろうか。この空間は鑑賞者からエネルギーを多分に”吸ってしまう”。非日常の体験は、あくまで日常の余力で起こすものなのであり、その余力を細分化して使えるオンデマンドのプラットフォームはやはり現代人の体力には見合っている。映画館においては、«他者»が存在する。鑑賞者も、<音>や<映像>さえも。私は彼らを、私から独立した実態として、«私»と同じステータスで存在する。«他者»とは一時停止したり、保存するという振る舞いのDX化が最も遅い局地なのだ。そこで、私は情報を操作する経験を抑制されている。この身体は、まず私の側頭から迫ってくる得体の知れない<音>に、その<音>が着地した<映像>の現在地を把握する。そのあと、初めてその風景の意味を理解する。私は、あらゆる他者をこの身体をもとに、”配置”された具象的欲望を追体験していく。超人系映画では、私たちは”空を飛び”、”弾丸を避け”、”何でも把握する聴力”を持っている。

«悪»について。現代では、善との境界はますます曖昧である。これを書いているうちに、これらの超人的な振る舞いが、その対面する命題や出口によって«善悪の彼岸»の越境を繰り返すことは、けっこう倫理的なことであるように思えてきた。倫理観を総動するような機会は、スクリーンの外でもセンシティブになってきている。”一人称的”な立場で倫理性を判断するというのはすごく難しい。現実では倫理性とは、そのための余力を残した人間しか持ち得ないのだから。

※固くなってしまいましたが映画レビューです。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?