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ソフィ・カル(Sophie Calle)、彼女はもっぱらデジタルの写真家である。*Web上であなたに関する記述を目にする、あなたはコンセプチュアルアーティストであり、写真家であり、映画監督であり、いわゆる探偵でもあるとか。

*上記の写真と同様、彼女の作品集《Because》より。

P・Aいわく ”こういう芸術家だ、とひとつにくくることができない存在” だとか。

作家としての彼女の存在、あるいは彼女が作品を通して触れている’モノ’を解像度高く描写する言葉は豊富になってきた。そして、そんな語彙の参照は、デジタル時代での突入したことによって可能になったように思うのである。

彼女の作品はたとえ書物でも展覧会でも、その一次性は担保されている。それは、”私たち”の持つデジタル”的”イメージが存分に彼女の作品の機能性を支えるためである。

本来、写真家は新しいイメージを現前させる私たちに紹介する。しかし、彼女はほとんどの作品において新たなイメージの創出を行うのではない。私たちのイメージソースを”直に”マッサージする。写真の領域でそれを最初に印象づけたの、やはり彼女ではないだろうか。彼女は私たちの所有するそれイメージソースの手触りを可視化した(今は《Instagram》がそれを’ほとんど’実装しているわけで)。

少なくとも、’私’は、盗まれた絵画を幻視する人々と、海に初めて立ち会った人々と、あるいは盲目の人々と”共有可能な”イメージソースを少なからず持っている。鑑賞者がそんなものを抱えて自分の写真の前に立ち会うと思うとゾッとしそうな話であるが。

彼女は写真風景言葉意味を切り離す。現代は《都市》のように風景が意味を着込んでしまっている。彼女の作品は《見ること》の分解リバースエンジニアリングを行う。’そう、彼女は写真を《ただの写真》のままにしておいてくれるのだ。〈それが、私があなたに好感を持つ理由のひとつなのです。〉メディアの表象のようにイメージが暴力化や体制化されることも少なくて。。。

彼女が実態のあるイメージを現前させる写真家に教えてくれることは何か。デジタル時代において写真は生き物である。彼女の制作スタイルは河原温の姿勢にも似ているが、作品から作家の存在感を引き算する謙虚さを備えている。自伝的要素が多いにも関わらず。彼女はただ”置いてみる”。実際、こういった作家の作品に対する謙虚さがかえって能動的に作用する作品も増えてきている〈悪質なものも増えている。それこそ癌のように〉。たまに《ON KAWARA/河原温》を入り口にネットを覗いてみると、ほとんど彼は作品を自動生成するエンジンと化しているように見えてしまう。自伝的要素が多い彼女の作品はそのままとはいかないが、新たなイメージの実装の手引きとして参照できそうだ。

さて、写真にとっては言語はどこまでいっても普通名詞であり、言語にとって写真は固有名詞である。私たちのイメージソースはその間を可塑的に泳いでいる。

《⠥⢜⡠⣃⡺⣇⢊⢦⡢⣁⠌⠠⢂⡝⡔⡿⡔⠱⠚⡆⡴⣢⠄⡶⠆⠲⢤⠀窓を通過した光が私の手の上にとまっている。
⡝⣂”⢔⡔⣁⠌”⠠⢂⡇⢼⠖⠲⠣⡚⡆⢔⠶⠢⡔⣁⡈⠓⢜⡠⣅⣚⢆⠇⢺⠖⡢⢤》私は”この光”が消える前にこれらの文字を書き留めた。


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