戦争犯罪の再発防止策と人類の存続

 人類社会において、基本的に人間が他の人間に物理的暴力を振るうことは犯罪である。唯一それが許されるのは、他人からの暴力を受けた時に自己防衛(正当防衛)のためにする場合である。したがって戦争は犯罪という絶対悪であり、他から攻撃された時に自己防衛として戦うことのみが許される。
 現在、ロシアのプーチン大統領の命令により、ロシア軍によるウクライナ侵攻が続いている。ここにおいては、ロシア軍の行為は犯罪であり、ウクライナ軍の行為は正当防衛となる。こうした戦争犯罪を直ちに止めることが一番大切であるが、ここでは再発防止策について考えてみたい。
 また、日本は先の戦争で加害者となり、被害者となった経験から、二度と戦争をしない、させない社会の実現を強く望んだことも踏まえて考えたいと思う。
理想主義的で実現は不可能とみられるかもしれないが、三点考えてみた。
① 国連の安全保障体制の刷新
② 戦争犯罪に対する裁判の完全な実施
③ 全国家・組織の非核化さらに個人も含めた非武装化

 まず、国連の安全保障体制の刷新である。現在の国連の安全保障体制は、第二次世界対戦の戦勝国である常任理事国が中心となって担っている。そして、この5国は、核兵器の所持も特別に許されている。この5国が人類社会全体のことを考えて判断してもらえればいいのだが、実際は自国の利益を優先し、当事者となる案件についても拒否権を発することができる。そこで、少なくとも当事者となる案件における拒否権を禁止するとか、非常任理事国と会議における権限は同等にするといったような変更が必要であろう。つまり、より公平・公正な判断がなされるためには、人類社会全体を考える新しいルールを決めて、そのルールに従って判断をする体制・方法に変更すべきである。

 次に、戦争犯罪に対する裁判の完全な実施である。現在でも戦争については国際法により正当性が規定されており、実際戦争犯罪の裁判も一部行われてきた。しかし、安全保障理事会常任理事国が当事者となる戦争や戦争終結後の戦勝国に対する裁判は行われないようである。例えば、アメリカのイラク侵攻は正当な理由がないと言われるが、ブッシュ大統領他アメリカが裁判で裁かれることはなかった。また、先の戦争でも、敗戦国である日本に対しては裁判が実施されたが、戦争を終わらせるために必要であったとの主張もあるが、アメリカによる日本への空襲、原爆投下による民間人の大量殺戮は、日本が始めた戦争とはいえ何らかの裁判が行われてしかるべきだったであろう。戦争を絶対悪として裁判を実施することは、戦争を行う集団の指導層への戦争抑止に繋がることとなる。
 今回もこのままでは、プーチン大統領他ロシアの指導層を裁判にかけることは難しいであろう。近代以降の戦争は、戦争の最高責任者が戦場に行くことはなく、一番安全な場所で指揮するのみである。国際法に違反しようと裁かれることもなく命の危険にもあわない。つまり最高責任者は、自身は何のリスクもなく戦争を行い、その国家の兵士や国民のみが被害に遭う。最も責任を負うべき人が責任を取らずにぬくぬくと生き続ける。自身の権限で行ったことに対して、きちんと責任を取らせるべきである。殺人は最大の罪である。だから、戦争も最大の罪であり、裁かれるべきである。例えば、小さな記事でしか扱われないミサイル誤爆による民間人の殺害も裁判で裁かれるべきである。そして、こうした裁判は、時効期間の設置は必要と思うが少し過去に遡って実施されるべきであろう。さらに、今回はヨーロッパという注目されやすい地域で起こったので世界的な規模で話題にされているが、他の地域でも同様のことは最近も今も起こっている。ウクライナ以外の同様の戦争犯罪にも公平・公正に対応すべきである。もっともこの制度を実施するとなると、今回のロシアだけでなく、アメリカなども被告国の対象となる可能性は高く、実施ハードルの高い制度ではあるが、段階的でもいいので一歩踏み出してもらいたい。

 最後に、全国家・組織の非核化さらに個人も含めた非武装化である。理想論として一蹴されそうだが、私は真の平和を実現するために、たとえ100年、200年かかろうと目指すべき目標であると思う(そんな猶予はないと思うが)。戦争犯罪人として裁判が実施されるようになれば、実際戦争をしかけることは大きなリスクとなり、行われなくなるかもしれない。しかし刑罰制度があっても犯罪がなくならないように、戦争が裁かれる犯罪となっても、人間は過ちを犯すことはあるだろう。どんな立派な人でも完璧でない限り、過ちを犯すことはあり得る。だから、過ちを犯しても多数の死者が出ないようにするために、非武装化を推進したい。日本国憲法は、ある面アメリカからの押しつけであるかもしれないが、あの戦争を加害者として被害者として経験した日本人はこの平和憲法が制定された時、歓迎したのではないだろうか。そして、二度と戦争を起こさない、戦争を起こさせないとの決意をしたのではないだろうか。憲法の前文には、そうしたあの時の国民の意思が感じられる。この先人の意志を継いで戦争をできないようにするために、今こそ武器を捨て、互いの信頼関係を維持することを相互に努力する人類社会を構築したいと思う。

 非武装化への一歩として、現在非核化を推進する動きはある。核兵器は使用時の被害だけでなく、長い年月にわたって被害をもたらし(現在それを緩和する根本的技術はない)、多く使用されれば人類は滅亡する。核兵器を容認する人は、核兵器は人類滅亡も可能とするほどの殺傷力があるために使用できず抑止力になると言う。しかし、今回のロシアによるウクライナ侵攻においては、確かにNATO軍の参入の抑止力になり世界戦争への突入を阻止しているかもしれないが、逆にその参入を防ぎロシアの侵攻を進めるための脅しに使われている。一方が本当に核兵器を使用するかもしれない状況になれば、核兵器は抑止力でなく、脅しとして作用し有利に戦争を進める手段になってしまうのである。つまり、核兵器は常に戦争の抑止力にはならない。核兵器が抑止力になるのは、相互に核兵器を使用すれば人類滅亡するかもしれないので使用しないという暗黙の信頼関係があってのことである。また、人類が常に理性的でコントロールできるものであるとの前提があってのことである。
 また、核兵器は、軍事力の差を埋めることができる。だから、北朝鮮はアメリカに対抗するために核兵器保持を必要とする。したがって、核兵器のみを禁止することは軍事大国と対峙する国にとっては死活問題となる。だから、最終的に大国と小国との軍事格差を是正するには軍事力をなくす非武装化まで必要なのである。現在、自国の軍事力のみで自国を防衛可能な国は、アメリカ、ロシア、中国くらいではないだろうか。つまり、ほとんど全ての国は、軍事力による自国防衛はできないのである。今、日本でも中国、ロシア、北朝鮮などから防衛するために軍備拡張が議論されようとしている。しかし、いくら軍備を拡張しても、たとえ核兵器を保持しようとも中国、ロシアから防衛することは難しいと思う。予算も技術・資源も少ない国家が軍備拡張で防衛できると考える方が逆に理想論のように思える。
 もう少し日本の場合を考えてみよう。ミサイルの迎撃装置の整備は、感知されない最新のミサイルには役立たない。また、敵基地攻撃は、先に攻撃されたら役に立たないし、こちらから先に攻撃した場合は、相手は先制攻撃されたとの理由により本格的に攻撃してくるであろう。これらの整備は防衛を強化しているとのやってる感は出るが、実際には役に立たない。また、やってる感を出すことで、アメリカの支援を得やすくする効果を期待するのかもしれないが、今回のウクライナ侵攻に対して核戦争への発展を恐れ、アメリカが直接関与しない現実を踏まえれば、絶対に確実な支援を得られるかは疑問である。もちろん、アメリカとの関係はウクライナより日本の方がはるかに強固であるとしてもだ。また支援を得られ戦争に勝利したとしても、日本全土が完全に戦争状態となり、さらにウクライナのような核シェルターもない日本ではより多くの被害者が出るであろう。国家は維持できたとしても多くの戦死者が出る現実を受け止められるだろうか。軍備拡張による平和維持とは、結局国家の維持であり、国民一人ひとりの生命を維持するものではない。もちろんお国のために死ぬのは本望と思う人もいると思う。確かに人類の進化を考える上で、集団の絆を深め、集団のために戦う集団の方が存続に優位に働いたであろう。しかし、生物の本能が生きたいと思う事である以上、少数派と思われ、自身はお国のために死んでも構わないと思うかもしれないが、その人の家族などその人を大切に思う人は良くは思わなく、周りの人を不幸にしてしまう。他に方法があるならば避けるべき事である。
 非武装化は理想論と言うが、むしろ軍事力の強化で平和維持という考えこそ理想論ではないだろうか。「人間は、賢いから武器を持っても人殺しには使わない。こちらが武器を持っていることが抑止力になって相手も武器を使わないだろう。」という理想論。でも、人間は、欲深く間違いを犯す存在である。だから、このように考えることこそが、人間を理想化する理想論であると思う。少なくとも人間を理想化(遺伝子レベルで生物としての本能を変える)することより、人間が作るもの(制度・文化・考え等)を変えて理想に近づける方が実現の可能性は高いと思う。また、相互に抑止力になるということは、互いに武器は使用しないというある種の信頼関係あってのことになるのではないか。武器を所持しても、結局平和を維持するのは相互の信頼関係なのである。ならば、戦争という間違いを犯そうとしても武器がなく戦争ができないというより安全な状態で信頼関係を築くべきではないだろうか。
 個人の銃所有が認められているアメリカと認められていない日本のどちらがより平和で安全か。飛行機に乗るときに、安全性を確保するのに乗客が自身を守るために銃を所持するのではなく、徹底的に武器となるものの持ち込みを防止するのはなぜか。地球を大きな飛行機と考え、そこに生活する人間がその乗客としたならば、地球への武器持ち込みを基本的に禁止するのが地球の安全・平和維持の本来の姿であると思う。もちろん、すぐにできることではないだろうし、非合法的に武器を所持する人もいるので、警察機能は必要である(唯一の武器所持機関となるのでその暴走を抑制するシステムは必要)。さらに、ちょっとSF的だが、宇宙人の攻撃に備えることは必要かもしれない。余談だが、もしかしたら宇宙人が攻撃してきたら、一致団結して人類社会は平和になるかもしれないが。
 理想ではなく、現実を見ろとも言われるであろう。しかし、現実に対応するだけでは他の動物と同じで、今の問題に対応することにしかならず、問題の解決には繋がらない。つまり、天敵がいるから逃げるといったような行動である。しかし、人類は天敵を天敵でなくすことで、つまり根本の問題解決で対応してきた。現実を変えて対応してきた。現実への対処ではない解決策を考えるべきである。
 こんな理想論を言うと、「頭がお花畑」とよく言われる。しかし、実際のお花畑は、人間以外の生物にとっては厳しい生存競争の世界である。それを人間だけは、平和なのんびりとした世界と思ってしまう。私は、本来自然界では戦争による殺し合いをする世界と同様に厳しい生存競争があるお花畑を、頭の中で平和であると考えるだけでなく、現実として平和なお花畑に変えたいと思う。頭のお花畑を現実のお花畑にする、つまり理想的な社会の実現である。なんだ結局理想の実現であるのかと、理想主義で実現不可能なことを考えても無駄だと思う人もいるだろう。でも、人類は、皆からバカにされながらもトライして実現してきた歴史がある。空を飛びたいと思いトライした人、変人扱いされたであろう。でも今では、誰でも飛行機に乗り空を飛べる。野球のイチローさんも「僕は子供の頃から人に笑われてきたことを常に達成してきているという自負はあるので、例えば小学生の頃に毎日野球を練習して、近所の人から『あいつプロ野球選手にでもなるのか…。』っていつも笑われてた。」と言い、本当に実現してきた。人類史は、想像した夢・理想を創造力で実現してきた歴史であると思う。人間が作った制度、組織、兵器、戦争なら変えることはできる。できると思いトライしたらできる。地球環境問題も、スウェーデンのたった一人の女子高生の行動が大きなうねりとなった。だから、少数派であっても人類の真の平和への歩みの実現も可能であると信じて進んでいきたい。そのためにも、多くの人が、今回のウクライナのことを、自身のことと考え、戦争の悲惨さ・残酷さを再認識して、戦争=絶対悪の意識でどうしたら、なくせるかについて一人ひとりが議論するようになって欲しい。核などの大量殺戮兵器を使用する戦争と地球環境問題は人類滅亡のリスクであり、これらを解決することが人類を存続可能とする重要な手段であると思うから。理想論と片付けることは簡単で、ただちに影響なく現在生きている人は問題ないかもしれない。しかし、生物は子孫を残し(遺伝子を残し)、存続しようとするものである。現在生きている人類は、自分やその後の近い世代で人類滅亡に至るようなことをしてはならない。少なくとも私は、そんな最低の人類、生物にはなりたくない。こうしている現在も多くのウクライナ人やロシア兵士が犠牲になっている。一刻も早く戦争をやめることが最も大切なことであるが、すでに犠牲になられた方々のためにも、二度と戦争をしない、させない社会を実現する最大限の重要な義務が今生きている人にはあると思う。

 この文章に対する最大の批判は、「素人は黙れ。おまえにできることは寄付することくらい。くだらないことを考える暇があるのなら、もっと日本のためになることをしろ。」といったことではないだろうか。その通り、私は哲学、物理、化学、数学、生物学、人類学、経済学、政治学、法学など、どれ一つとして専門家ではない。薄っぺらな知識と間違った理解もある中で、私なりに考えたことだ。しかし、素人だからこそ固定観念もなく考えられ、多様な考えも出るのではないかと思う。そうして意見を出し合い、議論することでより最適な解に近づくのではないだろうか。

『私には夢がある。戦争のない、貧困のない、人権侵害のない一人ひとりが平和で自由で幸福になれる人類社会になるという。誰もが安心して、「生きたい(生きられる)、幸せになりたい」と心から思える社会の実現を。』

 そのために、まず殺されるという恐怖をなくそう。戦争をなくそう。国家、民族、文化により人間は、多様な種、ホモ・ジャパニーズやホモ・XXXX・・・があるように思い、互いに争いがちであるが、生物としては、ホモ・サピエンスという同じ一種類なのである。人類は、生物としては種の分化はしてないのである。文化の違いにより多様な人類社会はあるが、生物としては分化してない。生物としては分化せずに、多様性があることは、人類という一つの種存続可能性を高めるだろう。そのためには、異なる文化を認め合いながら、同じ種として共存すべきなのである。文化の違いを相互に学び・模倣し・高め合うことで人類全体の生存・繁殖・発展をより優位にすることが可能となる。個としては、他の動物より劣る人類は、集団社会を形成し、経験・知性を集積することにより生物界で優位な位置を獲得した。但し、武器を持って互いに監視し合う関係では、相手への情報提供・公開は相手を利することになりかねなく、躊躇するであろう。人類の生存・繁殖・発展は信頼関係のある平和が必要なのである。人間は一人では何もできない弱い存在。独裁者の考えのみで動く社会は一人の知恵のみで生きる社会となるから、権限集中した独裁は続かない。集団社会の知恵、集合知が必要なのである。


殺し合わずに、平和な中で経験・知性の情報交換・共有しよう!

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