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AIイラストの本質 芸術性はそこにあるのか?

さて、さっそく本記事の本題から入っていきましょう。AIイラストには芸術性が備わっているのでしょうか。そもそも価値のある芸術とは一体どのようなものなのでしょうか。それを具体的に考察していきましょう。

画像生成AIを使用している私の持っている結論から述べますと、AIイラストには芸術性はありません。それを前提にAiイラストの基礎的な内容からなぜそのように至ったのかについて確認していきましょう。

そもそもAIイラストとは?

AIイラストとは、画像生成AIに対して人間側が一定の条件(以下プロンプト)を指示したうえで出力させたイラストのことです。一般的なプロンプトは文字ベースであることが多いですが、それ以外にも参考にしたいイラストや写真などをAIに学習させてイラストを出力させることも出来ます。

昨今はAIイラストに関する著作権の話題が盛んに議論されています。その内容は非常に興味深いものですが、しかしここでは割愛させていただきます。本記事は芸術性にフォーカスを当てた内容を扱っていくので、規定や法律の話よりも、よりファジーな内容に切り込んでいこうと考えています。


AI絵師という単語

AI絵師 これはSNSを利用している人々なら一度は目にしたことのある単語でしょう。画像生成AIを用いてAIイラストを出力し、様々な媒体で生成画像を公開している人々です。しかし、この単語は今日忌み嫌われている傾向にあります。絵師という言葉の矜持を穢している、そもそも師という言葉を使う程技量が必要ではない、など散々な言われようです。

これらの意見を持つ人々は概ね的を射ていると思います。長い間努力を重ねて絵を描き、試行錯誤やスランプを乗り越えて身に付けた技量、その誇りは決して誰にも侵されてはいけない領域です。その意見は十分に理解できますし、理解されるべきでもあります。しかしながら、それらはあまりに主観的過ぎる。それをAI絵師に説明したところで、「私たちも苦労してイラストを生成しています」と言われるのがオチでしょう。

それではどうすればよいのでしょうか。どうしたら絵を描くことと出力することの違いを説明できるのでしょうか。そこで重要になってくるのが絵師、より広義的な言い方をすれば芸術家という言葉です。芸術の本質とは何か、何が芸術たらしめるのか、その芸術性を突き詰めていくことで見解を盤石なものにすることができるのです。

芸術性の発露

芸術性という言葉はとても曖昧で便利な言葉です。なにかにつけて変わった物や趣深い存在に対して「なかなか味があるね」や「芸術的だね」といった芸術性に置換した言葉を並べ立てれば誉め言葉になります。それ自体に本当に芸術的価値が内包されているかは重要ではなく、読み取り手の心象に影響されるのが芸術性です。

もちろん、物自体に芸術性が内包されていることは多分にあります。有名な芸術家の作品、例えば絵画であればゴーギャンやルーベンス、音楽家ならショパンやリストなど、時代と人の波に晒されながら生き残っている作品には間違いなく芸術性が存在します。しかし、世の中に乱立している芸術性は基本的にそれほど高いフィールドにはおらず、言葉をキツくするならより低次元なフィールドに存在すると言えます。

これまでの話をまとめると、世の中に存在している多くの作品単体は芸術性としての価値が非常に乏しい。しかし、多くの人は芸術性の乏しい存在にも虚像の芸術性を見出しているのです。作品自体に宿る芸術性と人が読み取る芸術性には乖離が存在する。後者である、なんとなく凄い、なんとなくエモい、なんとなく好み、その曖昧なレビューに芸術性が存在しているのです


人が読み取る芸術性

それでは人が読み取る芸術性にはどのような特徴があるのでしょうか。端的に説明すると、それはブランドです。なんか身も蓋もありませんね。しかし、これが人が読み取る芸術性の本質であると考えられます。

ブランドという言葉を使うとき、多くの人はブランド品であったりと高級なイメージを持つと思います。Brandという言葉の語源は「家畜に焼き印を押すことで他者の家畜と区別すること」とされています。他の物とは違う唯一性に対してブランドという言葉は真意を発揮します。まずはそれを念頭に置きましょう。

それではみなさんに質問です。

「目の前に小さな赤ちゃんがクレヨンで殴り描きした絵があります。それをあなたは芸術であると言えますか?」

この答えはより条件を加えていけば答えが明確になっていきます。

「目の前にあなたの小さな赤ちゃんがクレヨンで殴り描きした絵があります。それをあなたは芸術であると言えますか?」

あなたの、という言葉が付け足されました。たった四文字の言葉ですが、実はそれが大きな力を持ちます。他の子とは違う、自分の子。そのブランドを手に入れた絵はそれだけで他の物よりも光輝いて見えます。多分皆さんはこう言うでしょう。「この子は天才かもしれない」と。

他の例も挙げましょう。人間以外の動物が絵を描いたとします。例えば、象が長い鼻を巧みに使い絵筆で人の絵を描いたとします。それはあまりに拙い絵で、まるで棒人間のようです。それでも人々は象を画家であり、芸術性の高い高次な存在であると喧伝するでしょう。

人間が描いても雑な絵、しかし象が描けば芸術になる。これは象というブランドが生み出した魔法です。象は芸術を生み出そうと考えたのでしょうか?私には象の考えは伺えないので全ては憶測になりますが、周りの人々が褒めてくれる、ご飯を貰える、そんな打算が生み出した産物であるという可能性が高いでしょう。そこに人間が言う芸術性は見出せません。しかし、人々は象の絵で芸術性を語る。

これほど面白い倒錯はありません。ないものをあるという。この単純明快であり、だからこそ誰も語ろうとしないパラドックスにAIイラストに芸術性があるかどうかという問いの答えがあります。

AIイラストについて考える

さて、ここからが記事の本題とも言えます。AIイラストに芸術性が存在するのか。答えはNOです。

まず、作品自体に備わっている芸術性の有無について確認しましょう。もちろん、そこに芸術性など皆無です。時代にも人の波にも晒されず、一瞬バズっては情報の海に沈んでいく絵に芸術性の欠片もありません。

それでは人が読み取る芸術性は存在するのか。それもNOです。これまで芸術性にはブランドが命であると語りましたが、それを別の言葉に言い換えると希少性とも言えます。自分の子どもの絵、象が描いた絵。それらの希少性の高いブランドに対して芸術性は付随していきます。

しかし、現状のAIイラストは似たり寄ったりな線に妙に艶っぽい質感、所謂美少女だらけです。それがTwitterに流れてくるものなら情報汚染といっても差し支えないでしょう。希少性もブランドもどこにもありません。二つの芸術性のうち、どちらも存在していないのです。

曖昧な芸術性の罠

さて、ここまでに人間が持つ芸術性という価値観の脆弱性を理解できたかと思います。これまでの話はAIイラストが生成したという前提で生成画像を見せてきた状況で解説していました。ハッシュタグに#AIartと書かれていれば誰でもそれがAIイラストであると分かります。しかし、現実では世にも恐ろしい現象が起こっているのです。

絵画コンクールでAIイラストが優勝。センセーショナルなニュースが世界中を席巻しました。立て続けに何件か似たような事件が起こっていたのは記憶に新しいでしょう。一部ではAIイラストにも芸術性があると言って運営委員会側が優勝を薦めてきたというヘンテコな場合もありましたが、多くはAIイラストであるということを隠した状態で優勝していました。

なまじAIイラストが美麗であるために技術力の高さを評価されてしまい、技術力→芸術性として誤認されてしまいました。これは芸術性という砂城を崇める亡者の失態です。しかし、我々亡者はそれを知る手立てがほとんどないのです。精密解析をすることでAIイラストのパターンをスキャンすることは可能ですが、我々の目では精巧なAIイラストを手書きの物と判断することは困難を極めます。

まとめ

現状、AIイラストに芸術性を見出すことは不可能です。作品そのものに芸術性がなく、読み取り手が重視しているブランドという芸術性も存在していません。そのため、AIイラストの本質に芸術性は皆無です。

しかし、その芸術性ことが最大の罠であるということを努々忘れてはなりません。曖昧な思考の上に芸術性が立っているということを認識することでAIイラストだけではなく芸術全般の慧眼を養うことができるでしょう。

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