比喩の使い方 場面の表現方法

2022年の中頃、私はある興味深い言葉と出会いました。その言葉はなかなか考えさせる内容でして、ずっと頭の端っこに引っかかって取れなかったのです。その言葉とは…。

「比喩とは、既知の知識を使って未知の知識を理解する素晴らしい技法でしょ」

これはとあるゲームに登場する一人のキャラクターが投げる言葉なのですが、なかなかどうして的を得ている。一言一句共感できる反面、しかし同時にどうにも違和感を拭えなかった。今回はこの言葉を中心として私が考えたあれこれについて書いていこうと思います。

比喩は日常生活の中に深く入り込んだ存在と言えるでしょう。いや、日常生活はおろか、人という存在に溶接されたかの如くべったりと張り付いている存在と言い切れるかもしれません。比喩表現は人と会話をするとき以外にも、遍く全ての対象に対して思考するときにも用いられるのですから。

しかし、ほとんどの人は自分が日常的に脳内で比喩表現を使っているということを自覚していません。もはや無意識のうちに使っている技法なのです。心臓を動かすのに意識が必要ないように、肺が酸素を求めることが意識外の生理現象のように、比喩もまた思考するために切っても切り離せない存在なのです。

つらつらと理屈を並べても仕方がないと思うので、一つ例を挙げていきましょう。


さて、リンゴです。真っ赤に熟れていて、齧ると甘酸っぱい果汁がでて美味しそうですね。では皆さんに質問です。このリンゴの見た目を説明してください。しかし、条件があります。その条件とは、このリンゴの見た目をなるべく詳しく説明すること。形容詞・節は少なくとも2つ以上を用いてください。そして、この画像を見ていない人に向けて、画像の細部までを想像できるような説明をしてください。それだけです。では、どうぞ。

~thinking time~


はい、どうだったでしょうか。そこまで難しくはなかったかもしれません。しかし、私の示した条件に合った表現が出来たか、そこを添削しなければ結果は分かりませんね。

人によって様々な回答ができたと思います。この赤色が一体どのような赤色なのか、色の濃淡をどう表現するのか、表面の光具合をどう説明するのか。例えば、こんな回答をした人が居るかもしれません。

「表面が光っている真っ赤なリンゴ」

なるほど。確かにその通りですね。画像のリンゴは光が反射するほどに磨き上げられていますし、真っ赤でもあります。しかし、これは完全な表現と言えるでしょうか。残念ながらそうとは言えません。この説明には改善の余地があるからです。

この説明は親切ではない。表面がどのように光っているのか、無数にある赤色の中で真っ赤とはどのような色なのか、その説明が全くなされていません。これでは画像を見ていない人に説明しても解像度の低い想像しか出来ないでしょう。

それでは解像度の高い説明に変えてみましょう。

「表面を鏡のように磨かれていて、冬の子どものほっぺのように真っ赤なリンゴ」

「まるでビー玉のようにツルツルとした表面に、ルビーのように真っ赤な色をしたリンゴ」

さて、いかがでしょうか。なかなか解像度の高い表現になったのではないでしょうか。~のように、という言葉を用いるだけでイメージできる幅は大きく広がることが分かったでしょう。

それでは次は私が何故二つの条件を出したかについて説明しましょう。

私がこの記事の冒頭で紹介した言葉を思い出してください。

「比喩とは、既知の知識を使って未知の知識を理解する素晴らしい技法でしょ」

まず、物事を理解するためには詳しい解説が必要です。その情報量はなるべく多い方が理解の幅が広がります。これが最初に提示した「このリンゴの見た目をなるべく詳しく説明すること。形容詞・節は少なくとも2つ以上を用いてください」という文言の真意です。

そして、次が重要です。この画像を見ていない人に向けて、画像の細部までを想像できるような説明をしてください。この前半部分、画像を見ていない人に向けて、という部分は未知の知識という部分に密接に関係してきています。

画像を見ていない人はこの画像自体が未知の事柄です。それを私たちは相手が知っていそうな場面や見た目の何かに例えることで、詳しく説明していかなければなりません。まさに、私たちが今実践した説明は、冒頭で紹介した言葉の意味をなぞっていたのです。

次はもう少し話を発展させていきましょう。私はこの記事の冒頭でこうも言いました。「しかし同時にどうにも違和感を拭えなかった」と。この違和感とは何でしょうか。

画像の内容を画像を見ていない人に説明する、という行動はどうにも一般的ではありません。そんな場面日常にあまりありませんよね。似たような場面はあるかもしれませんが、それもマイノリティでしょう。しかし、実は私たちは日常的に私たち自身に比喩を用いて物事を解説しているのです。

頭がこんがらがってきましたね。より分かりやすく解説しましょう。

例えば、初めて見た犬種が居たとします。しかし、私たちはそれがネコでもなく、ヒツジでもなく、ウマでもないことは一瞬で分かります。それはどうしてでしょうか。それは人間が生得的に過去の経験から骨格や大きさ、毛並みの付き方などを分析した知識を集積する構造が作られているからです。

諸々の情報の中から対象が一体何なのかを脳内で自動的に分析し答えを出していきます。その結果が、「これはイヌである」という結論に至るわけです。さぁ、少しずつ見えてきたのではないでしょうか。

人間の脳は何かを知覚する過程で過去の経験から得た情報を無意識に活用しています。口吻が存在していて、体は人間の腰よりも低い、尻尾をゆさゆさと左右に揺らしており、口を開けて息をしている。これはまるでイヌのようだ。だからこれはイヌである。このような過程が脳内で起きています。

これはまさに比喩を用いた思考方法と言えるでしょう。私たちはこれを自覚しながら物事を考えることは決してありません。当の私もこのことについて考えるまで一切の自覚はありませんでした。しかし、気が付いてみると私たちの身の回りには比喩で溢れかえっている。それに気が付いてしまったのです。

この記事は備忘録的な側面があるので、私の感想も述べますと、「自力でここまで考えるのに苦労した」。自身の内面を分析し、思考パターンを普遍化しなければならないのですから、それは容易なことではありません。この方法は俗にいう思想家と同じ行動をしています。なら、私も思想家と名乗ってもいいのではないかしら。いや、こっぱずかしいのでやめておきましょう。

閑話休題です。さて、このことに気が付いていなかった私は、「比喩とは、既知の知識を使って未知の知識を理解する素晴らしい技法でしょ」という言葉に違和感を覚えたのでしょう。日常的に使い過ぎて灯台下暗しになっていたからこそ、何かを忘れているようなもやもやとした釈然としない感覚が襲い掛かってきていたみたいです。

まとめ

人間はものを認識するうえで比喩表現を用いながら思考しています。

その物体は円柱状であり、一つの平面が取りのぞかれている。中に何かが入りそうだ。大きさは手のひらサイズ。そして持ち手のようなものがある。これはコップである。このように普段見慣れている存在にも私たちは比喩表現を用いて思考しているのです。

比喩表現というと少し難しいイメージを抱く人もいるかもしれません。しかし、人間は皆この比喩表現の卓越した使用者であり表現者でもあるのです。この美しくもあり素晴らしい表現である比喩に関して、皆さんの理解が深まることができれば幸いです。



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