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希死念慮が消えない人のこと

 Amazon Primeでアニメ『銀の匙』を見ている。登場人物は当たり前に夢を持ち,明るく生き,目標に向かって毎日邁進する。そうやって一つの方向に向かって行けない人もいる。

 私もずっと暗くて後ろ向きで,希死念慮がある自分を消すことができない。昔から何かあるたびに「まあ死ねば楽になる」と思って生きる辛さから逃げてきた。高校生のときはODもリスカもし,自死を計画した。今でこそ生きる方向にベクトルは向いているが,次いつひっくり返るかはわからない。

 普段の生活で人と接していると,生きることや生き続けること,その中で何をするかについて当たり前に真剣に考えて行動している人たちに出会う。そんな人たちには(はた目には)微塵も希死念慮なんてなくて,びっくりするほどまっすぐだ。そしてまじめだ。私はそんな人たちを見て,いつも不思議な気持ちになる。「未来を計画して生きることに怖さはないのか?」ないんだろうな。うらやましい。

 『銀の匙』を見ていて,主人公の八軒くんはまじめな青年だけれども,進路に迷っている。でも進路に迷っているけれども,死に向かっているような人間ではない。迷いながらも,生きていくための目標を探している。私はどうだろう。未来を計画することが怖くて,与えられた仕事だけこなしてなんとか生きている。その日を生きるための仕事だ。しかもあと2年先までしか保証されていない。いつもいつも,生きるのが怖くて逃げ道を探す。なぜだろう。身体は生きる方向に向かっているし,私自身は意識的に生きると決めている。生きることから逃げることは矛盾した行為だ。なのになぜ。

 生物には走性という性質がある。本人の意志とは関係なく何かに体が向かって行ってしまう運動指向性だ。人間が生きることも,走性みたいなものなのかもしれない。だとしたら我々希死念慮をもつ人間は,欠陥を持っている。他の人間と同じ"生きる"方向に向かえないからだ。私たちは自分で考えることができるので,走性を後天的に持つことはできない。なので,自分の中の走性を盲目に信じて生きるか,生きる方向に向かう自分を疑いながら生きていくしかない。

 身体のベクトルが死にひっくり返るまで,生きる方向に向かっていてもいいのでは。怖がる必要はない。だって死ぬときは,私は黙って死に向かえるから。

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