細やかな嗜好品

 中学生1年生の夏頃だったか、深夜になると1つ年上の兄の部屋からクスクスと笑い声が聞こえるようになった。
 翌朝、目の下にクマを作った兄に問いても何をしていたのか教えてくれない。いそいそとパソコンに向かって何やら作業をしている。兄が秘密にしているその笑いの源がやけに気になった。

 兄がパソコンから離れた隙に兄が何をしていたのかをつきとめようと、パソコンの中を覗き込んだ。そこには「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン」とあった。私が初めて深夜ラジオに出会った日である。

 深夜のラジオから聞こえてくる笑いはどこか秘密めいていて、特別な時間のように感じた。当時はradikoのようなものはなかったため(私が知らなかっただけかもしれない)、その時間に起きていられたものだけが聴くことができる「選ばれしものの笑い」のようにも思えた。

 兄との会話が増えた。元々仲が悪かったわけではないけれど、くりぃむしちゅーのラジオについて話す機会が増えた。「上田の次男坊」については未だに話しているくらいだ。
 そこからお互いさまざまなラジオを聴いた。高校時代にはちょっとした「ハスり」でJ-waveを聴いてみたり、JAZZのルーツを探るラジオなんてものまで聴いてみたりもした。

 先日、オードリーの東京ドーム公演のオープニング映像を見ながら、ふと初めてラジオを聴いた日のことを思い出した。

 深夜ラジオというものがまだ影に潜んで「知っているものだけの特別な笑い」だった頃、誰にいうでもなくこそこそ聴いていた頃、同士を見つけてはお互い静かに興奮して、早口でラジオの面白さを語り合っていた頃。確かにラジオで繋がる心があった。2人だけの秘密の嗜好品を、深夜お互いの部屋でクスクスとひっそり聴き、翌日にそれを語らうのである。

 今では深夜ラジオも一つのジャンルとしてさまざまな人が語るコンテンツとなった。影に潜むコンテンツでなく、陽を浴びるコンテンツになったのだ。そもそも私の生まれる何十年前からあるコンテンツなのだから、ずっとメジャーだったのかもしれない。それでも私が聴き始めた頃よりも深夜ラジオというものを聴く人が増えたように思う。それを嬉しく思う反面、寂しく思う自分もいた。あの頃ヒソヒソ語り合った友人は元気にしているだろうか。まだあのラジオを聴いてくれていたら嬉しいな。

 私にとって深夜ラジオは細やかな嗜好品だ。聴けばほんの少しの勇気と元気をもらえるから。自分のちょっと意地悪な部分、スケベな部分、誰にも言いにくい感情や誰に共有するでもない感情を言葉にし、笑いに昇華してくれる。

 孤独な夜を味わった人の心に灯る小さな小さな灯り。(光なんて眩しいものではないんだと思う)

 あの日それを目撃した16万人の中に、きっと同じ心を抱えた人がいる。あのオープニング映像に胸が熱くなった人がいる。それだけであの日1人で布団を被りながら深夜ラジオに齧りついていた私が救われたようだった。

 何かの流行り廃りの影にさまざまな心を抱えた人がいる。良いも悪いも抜きにして、自分が好きなものは好きでいたい。それが形を変えてもきっとどこかにあの日の影を求めて。

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