10年前と今

3月11日。この日の前後には盛んに東日本大震災の記憶を風化させまいとマスメディアではそういう特集が多く組まれ、特に発生した14時46分前後には全国ネットでテレビで特番が組まれている。
三者三様のこの日があり、さまざまな記憶がある。当時、滋賀県長浜市在住で被災していない僕にとっても、なぜかこの日のことって鮮明に覚えていたりする。そんな記憶を振り返り、そして、僕がこの日を身近に感じた瞬間を綴る。

あのときの記憶を振り返る。

この時の僕は中学1年生。発生した時刻前後は体育館で卒業式の合唱の練習をしていた。それから、放課後、部活を終えてから、いつも通りに家に着き、テレビを見た。そこで初めて、東北で未曾有の事態になっていることに気づいた。母が作ってくれたフレンチトーストを頬張りながら、その惨状の続報を黙って見ていた。ザッピングしていて、どこもかしこも刻一刻と変化するその状況ノンストップで伝え続けていた。そして「NHKEテレ」では安否情報を伝えていて、非常事態のさなかという現状が腑に落ちていた。
それから数日ぐらいは民放とNHK総合は災害報道一色、そしてEテレは安否情報を伝え、週末、家族で車に乗って聴いていたラジオも曲を挟みつつ、基本的に特番を組んで、伝え続けていた。
この現状が受け入れられず、当時小学校3年の妹はいつもの番組が見られないことに癇癪を起こし、母が見かねて、叱りつけていたのを覚えている。そりゃ他人事だし、小学生当時の妹には現状を理解に苦しんだろう。
こんなこと言ってる僕自身もこの当時は他人事として見ているだけだった。3年前のあの日までは。

恐ろしさ

実は滋賀県内でもあのときかすかに揺れていたみたいで、10ch(日テレ系)のドキュメントを見ていると「ミヤネ屋」を放送していた大阪でもスタジオ天井の照明揺れていたほど。僕が中2の頃の担任も、合唱練習を見守っているさなかに揺れを感じていた。これらを聞いて僕は、M9.0の恐ろしさを少し実感した。

備えと変化

一人暮らし開始後、防災への備えは徹底していた。テレビの下に転倒防止マットを敷き、それなりに非常食も準備していた。HSPの性格上こういうところは「備えあれば憂いなし」という言葉通りにしておきたかった。
そして、2018年6月18日。大阪北部地震が発生。バイトしていた大津市でも震度5弱を記録。バイトを終え、JR膳所駅から京都市の山科駅まで国道1号を歩いて帰り、運転を再開した地下鉄と近鉄を乗り継いで、家路に着くことができた。あの日他人事のように見ていたシーンを自分が体感することとなった。詳しくは当時のことを綴った記事があるので、割愛する。

生まれて以来、震度4以上の大きい地震の経験が少ない。大阪北部地震でも実際、僕と僕の家族の物的被害はほぼ無かった。ただ、これはたまたまそうなっただけで、いつかこれを超えるようなことに見舞われるのかもしれない。そう考えると恐ろしい。ただ、そう考えるなら、少しでも身を守るための術を身につけた方が良い。そのためのハンドブックも置いてあって時々見直したほうがいいだろう。自分だけでなく、大切な人々を守る術にもなる。いつか来るかもしれないその時のために。

ストリートミュージシャンの投げ銭のような感覚でお気軽にどうぞ。