劣等感は原動力になり得るか

私は、他の人から見て「頑張っている」ように見えるらしい。

それは、実際に努力して何かに取り組んでいることの証明というより、「頑張っているように見える」「余裕がないように見える」みたいな意味なのだと自虐している。

もし、本当の意味で私が「頑張っている(努力している)」とすれば、それは、私が「人並み以下」だからである。
他の人が難なくこなせることが私には途方もなく難しく感じる。そういったことがこれまで何度もあった。私は努力しなければできないのだ。何事も、「何かできた笑」と笑って過ごせるような超人にはなれないのだ。

私は今まで他人と自分とを比較して自分に絶望しながら、なんとか自分を研磨しようと生きてきたような気がする。フランス語検定の翌週にドイツ語検定を入れるなど横着なスケジュール調整をするのも、その現れなのかなと思う。

自分だけでは証明することができないし、言語の「指標」は明確にはない。だが、何かに縋って、何かに沿って学ぶということをしなければ何をどう勉強すればいいかわからなくなってしまうのだ。

友達は私を「生き急いでいる」と言う。
私もそう思う。

ただ、将来というものが確実に思い描くことができない今では、「今」を必死で生きるしかないと私は考えている。だからこそ、今できることは何でもしたい。自分のキャパシティは常にオーバーし、常に苦しいと藻掻いているが、それでもその状態に戻ってしまう。

「頑張っている」自分に酔っているのだろうな、と思ったこともある。確かに、その一面はあるし、ダラダラしている自分何してるんだろと思うより、よし頑張った!と思えるほうが幾分かマシな人生を送っていそうではある。

ただ、頑張る自分に酔うだけにしては、タスクが多すぎやしないだろうか。

私がパンクしそうなほど詰め込むのは、優先順位をつけることや取捨選択ができないということは一因として間違いなくあるが、他の人に対する「劣等感」があるからだと思う。

誰かが、「好奇心」と「劣等感」が人を動かすというようなことを言っていた気がする。私もそうだと思う。

あの人はあれができる。この人はこんなにできる。じゃあ私は何ができる?

そういった気持ちで、他の人の「できないこと」をしようと藻掻いてきたような気がする。ただ、それは他の人がなにか1つを成し得るより倍以上の時間がかかるものなのだと思う。だから、また、藻掻いていこうと思う。

不器用で不出来な自分は。それで満足できない自分は。面倒くさくて、それでも案外、「頑張れている」のかもしれない。自分ではわからないけれど。

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