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走ることについて考えてみた(2019改)

バドミントンが本職(?)の僕にとって、「走ること」はあくまでバドミントンをし続けるための基礎体力維持がメインの目的だ。
ただ、何も目標がなく走るのもなかなか続かない(自分でいろんな理由をつけて走ることをサボってしまう)ので、最近はマラソン大会へエントリーすることで、「走ること」についても具体的な目標を設定し、イヤでも走らざるを得ない状況をつくることにしている。

今振り返ると、たまたまエントリーしたら当選してしまった第1回大阪マラソン(2011年)がきっかけとなり、年に1-2回、ハーフマラソンやフルマラソンを走るようになった。
1年半くらい前に、縁あってランニングチーム(うめ☆ラン)に参加させていただき、ランニング仲間が増え、ラン(+飲み)が大好きな皆さんに刺激を受け、好奇心旺盛(+少々負けず嫌い?)なせいで、フルマラソンばかりか、フル以上の距離を走るウルトラマラソンにも挑戦するまでにハマってしまった…。

先日、改めて「走ること」について考えながら走っていた。
妻に「何でわざわざそんなしんどい思いをして(しかも大枚をはたいて!)マラソン走んの?」と聞かれたせいもある。
もちろん体力維持・向上の一環でもあり、走るのが好き(身体をイジメるのが好き?)なこともあるのだが、「走ること」がもたらすものについて気付いたことがあったのでノートしておこう。

マラソンのスタート直後は、ゴールがとんでもなく遠く感じるけれど、目の前の道を一歩ずつ足を前に出して進み、1kmずつ距離を重ねていくことで、ゴールまでの距離が少しずつ近づいていき、最後にはゴールへたどり着くことができる。
そしてゴールした後には、なんとも言えない達成感、やりきった感が身体じゅうにあふれてきて、「自分はまだまだやれる」ことを実感できる。この「まだまだやれる」感覚が、スポーツだけでなく、いろんなところで目に見えない力となって自分を支えてくれているのではないか。また、これからぶつかるであろういろんな壁を乗り越える力になるのではないだろうか。
「走ること」は自分へのチャレンジであり、自分次第でやりきることもできるし、途中であきらめることもできるし、サボることもできる。
走っている時間は自分と向き合い、対話する時間。
そんなことを思いながら走っていた。

そして何より「走れること」に感謝しながら走っている。
ブツブツとなんやかんや言いながらも僕のわがままをきいてくれる家族への感謝、そして職場の皆さんをはじめとする周りの人々への感謝を忘れることなく、これからもボチボチ走り続けていこうと思う。
もちろん、体を壊さない程度に…ね。

※本稿は2012年にノートした文章を元に一部加筆しました。当時と想いは変わっていません。

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