ガリラヤにて
今から2000年前、まさに今立っているこの場所で、イエスによって魂が解放されるような教えが語られ、たくさんの奇跡が行われ、多くの人たちが癒されました。奇跡に最も近い場所にやってきた。そんな実感が足の裏から伝わってきます。
砂漠が多くとても乾燥しているイスラエルにあって、北部のガリラヤ地方はほっと息のつけるのどかな田舎町です。豊かな水があり、吹く風がなんとも優しくて穏やかなのです。2000年前にここで語られていたイエス・キリストの言葉も、きっとこの風のようだったのだろうと思わされます。癒しと解放の場所、それがガリラヤです。
今回私たちの旅を率いてくれる赤塚高仁さんは、「人生が変わる聖書漫談師」という唯一無二の肩書きを持っておられ、イスラエルへの旅はこれで32回目だとのこと。モットーは聖書を足の裏で読むこと。聖書は頭で読むものではない、その土地からインスピレーションを受けながら、体で感じるものだとおっしゃいます。
小高い丘に上がりガリラヤ湖からの風を感じたり、ガリラヤ湖畔を歩いていると、聖書を足の裏で読むという赤塚さんの言葉が少しわかる気がします。その土地の風が、水が、地面が、太陽が、空が、そこで起こった出来事を語り始めるように感じるからです。
イエスはこのガリラヤ湖の周辺で、いろんな人たちを癒しました。また、その噂を聞いて、いろんな人たちが集まってきたのです。
目の見えない人。足が萎えて歩けなくなった人。長く床に伏せっている人。出血が止まらない女性。ときにはすでに死人となった人までが、本人の力で、あるいは周りの人の協力を得て、イエスの前にやってきました。
癒しの奇跡がこれほど長い間語り継がれてきたのは、私たちがそれらの人の姿の中に、自分自身と重なるものを見出すからではないでしょうか。
生きる意味が見えない。希望が見えない。自分の中に力を感じない。自分の力に立つことができない。過去の傷がずっと癒えない。今でもそこにエネルギーが漏れている。あるいは、生きているという実感が持てない。ただ漫然と生きているだけに思える。
イメージを広げて考えてみれば、癒しを求めてイエスの周りに集まってくる人たちは、自分自身の姿であり、自分自身の課題であることがわかります。
それらの人たちは結局のところ、イエスに最も近い人となります。イエスにつながり、癒されるからです。では、それらの人たちに共通していることは何でしょうか。一体何が、イエスとのつながりを生み出したのでしょうか。
それは苦しみの自覚だと思います。自分の中の苦しみに素直になる。それを承る。だからこそ癒しが生じるのではないでしょうか。
聖書の中には、当時のユダヤ教の聖職者たちも多く出てきますが、彼らはイエスとのつながりはありませんでした。それはきっと、自分の中の苦しみを認めていなかったからでしょう。
苦しみを自覚することが果たして癒しにつながるのか。そのような疑問を持つ方も多いと思います。むしろ自分が嫌になって落ち込むのではないかと。確かにここが難しいところではあります。
苦しみを自覚するとは、それを承ることです。苦しみを抱えている自分が嫌になるのは、それをまだ承っていないからでしょう。どこかでそのような自分を否定している。そんな自分が許せないでいる。
そんなものを承ったら、ずっとそのままではないか。それを否定してこそ、成長できるのではないか。このような思い込みが、ずいぶん長い間私たちを苦しめてきたと思います。
承るとは、今そうであることを承るということです。今そうである自分を受け入れる。今そうである自分を許す。そして、ここからやっていこうと思えることです。そのときに初めて、私たちの中で癒しのプロセス、エンパワーメントのプロセスが始まります。
苦しみを承ることができると、きっと心の深いところで癒しと解放を感じるはずです。理屈ではなく、体で感じると思います。それが承ることができたサインです。
最初からうまくはいかないと思いますが、何度も自分の中にある影を否定しようとする自分に気づき、否定したい気持ちと正対していくならば、変容していくでしょう。
それは失われることのない希望だと思います。
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