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4/30 四月を散文し、五月が降ってくる。

 昨日は夜寝ようとしたら急に寂しさが襲ってきた。

 ひさしぶりの感覚だった。自分はひとりなんだと感じた。自分はがて、他人は他人で、交わることはなく、そして死んでいく。いつか必ず死ぬということを思い出した。それが怖いと感じた。いつもはああ死ぬんだなあと思うだけで怖くはならない。自分が無になるのが信じられなかった。いまこの生活はあと三年くらいで終わるのだと思うと少しゾッとした。早くここから抜け出したいと日々思っているのに、いざリアルに想像したら耐えられそうになかった。ひとりは嫌だ。孤独。依存。もっと上手に人と関わりたいと思う。

 みんないつか死ぬ。そしてみんな自分という存在を大切にしている。あなたにとって私は他人だし、それはどうやっても揺るがない。私は自分という存在は好きで、そして嫌いで、気持ちが良いやつだとも思うし、気持ちが悪いやつだとも思う。そんなアンビバレントな感じで、でも30年も生きていたらある程度は自分と和解できたとは思うのだけれど、それでもふいに夜は自分を揺さぶってくる。

 人をもっと愛せたなら、それはどんな生き方になるんだろう。やはり私は自分の損得ばかり考えて、周りの人間を自分のための駒だと思っているところがあるのかもしれない。もちろんこれは露悪的な言い方をしている。実際はそんな単純な話でもない。でももっと強くなれたなら、もっと人のことを愛せたなら、いまとは違う世界が見れるんじゃないかって思ってる。

 あらゆる意味で自分のことを手放せたらいいのかもしれない。自分はこれが得意だ、自分はこれが苦手だ、確かにそういうことはある。でもそれに縛られすぎている。私は所詮は凡人だから、苦手なことも得意なこともたかがしれている。ありふれている。特別な存在じゃない。すべては人並程度で、慣れればそこそこできるようにはなるし、でもそこそこしかできない。プロフェッショナルじゃない。そしてそれでいい。私は誰かの代用品になれればいい。

 私は私であるという意識を今日も持つ。人は習慣で行動しているらしい。考えることもすべて習慣的に同じようなことを考え、人間は人間が思っている以上に動物で、そこにどれほどの自由があるのだろう。天候に体調を左右され、そこにどんな意志が介在しようとも、私たちにいったいどれだけの術が残されているのかわからない。いまこうして私が書いている文章も、どこか未知なるところへ行きたいと思って書いても、自己という存在の枠からはみでることができない。Noteにいろいろ書いてきても、同じことをひたすら書いてしまう。私は私であることから逃れられない。誰かの代用品でもあり、どうしても憎たらしいほどにかけがえのない動物としての私がいる。

 そんな私がいつか死ぬ。まだ生きている。今日も生きている。だから書いている。あなたに会える。あなたも生きている。あなたもいつか死ぬ。わかりあえないまま死ぬ。私とあなたの関係。ただ生きて死ぬ。笑っていようが憎しみ合っていようが、別にたいしたことじゃない。生きて死んで、それだけだ。私たちの人生をドラマティックに考えすぎてはいけない。ただ生きる。そこに悲観も楽観もない。朝起きて、コーヒーを飲んで、タバコを吸う。人生っていうのはそういうもので、たくさんの意味は付与できるけど、できるだけ削ぎ落してシンプルにしていく。昨日の夜の寂しさは今日にまで持っていかないで、あなたと会って、挨拶をして、笑って、そしてさよならする。そういうシンプルな一日を生きて、また五月も生きる。それだけだ。

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