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『痛みはどしんと現れ、心はきゅーっとなっていく』


 ふいに身体の痛みに気づく瞬間がある。

 急に痛み出したわけではない。たぶんすごく前から痛かったけれど、ようやく痛みを自覚できるようになる。そのときには痛みはだいぶ大きくなっていて、ずいぶん重たく感じる。
「あ、こんなに身体がきつかったんだ。そりゃあネガティブになってメンヘラムーブをかますわけだ」
 そんなふうに妙に納得する。しばらく飯食って寝る、そんな生活を続けようかなんて思う。考えるのをやめる。

 だいたい不安が強いときは、右肩あたりがいたくなる。右肩、その下あたりが妙に痛い。これがこっているという感覚なのだろうか? 重たいと思う。呼吸が苦しい。ぐるぐる回すと少し楽になった気がする。一度その痛みを自覚するとずっと痛い。自覚するということが不思議だ。それまでは無視していた、気づかなかったということで、しかしそんなことができるはずがないほどいまは痛む、急に痛み出したのだろうか? わからない、でも、痛みが急に強くなったというよりは、気づいた、というのが正確な気がする感覚だ。

 姿勢とかが一番関係しているのだろうか。とにかく痛む。これが30代ということなのか? 身体のことを考える時間が増える。いや、20代でもそうだったんだろうが、それこそ自覚の問題なのかもしれない、身体の状態にそうとう精神も引っ張られる。繋がっている、と表現して適切なのかはわからない、関係していると言えばいいのか、筋トレをすれば人生が変わるみたいな言説を信じれるほど純粋ではないが、そういうことに少しは縋りたいという甘えはある。

 人はつい被害者になりたがる、主語がでかすぎた、少なくとも私はそうだ、そしてだいたい被害者になった人間は周りから見たら一番の加害者になる、そういうことの繰り返しを世の中している。
 右肩が痛む。そういうときの私はつい自分を被害者にしていることが多い。そういうときに右肩が痛みガチになる。もちろんいつもではない。身体が痛いことさえも、誰かのせいにしたくなる。まったく関係のない誰かを加害者にすることだけ、それだけは得意だ。
 
 ふいにラインが届く。普段はラインをほとんどしたことがない人から。内容の意味がわからずに、とりあえず、この人の中ではすっかり物語ができてしまっていることなのだろうと思う。とりあえず時間を置く。解決できないことは解決できないから、放っておく。
 なんとか身体がきついながらも一日を終える。横になると身体が痛くてしかたなく、ぐるぐるストレッチをして、早めに寝る。ここでぼーっとするという選択肢がとれていることがいまの私の成長だと捉えたい。休むことに罪悪感をおぼえなくなってきた。
 
 少しずつ進んでいると信じる。あるいは後退していたとしても、それはそれで必要なのだと信じる。そのための一歩。今日はなにをしよう。できるだけくだらなく、簡単なことをやっていく。それを積み上げていく。右肩を痛めながら、やっていこう。

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