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4/8『記憶はいつか妄想に変わっていく』

 眠る前に、急に憂鬱な気分が襲う。

 原因はたぶん、身体が痛いからだ。背中が上あたり、首の下あたりが痛く、呼吸すらやや苦しいくらいになった。私はたまにここが痛む。姿勢が悪いのだろうか。整体とかに行ったらきっといいのだろう、というところが地味に痛む。ずっと痛いのでさすがに精神的にも滅入ってくる。そんなことが一日続いたら、すっかり憂鬱になってしまっていた。

 さっさと寝てしまおう、そう思って眠剤を飲むが、どうしてかスマホばかり見てしまう。ツイッター。いや、Xか。Xをずっと見てしまう。そういうときに限って、暗い話題を見る。有名な文筆家が、すっかりおかしくなってしまった姿を見る。人は一度被害者ポジションに行ってしまうと、なかなか帰って来れない。自身の加害性は無視して、いかに自分がひどい目に合うことをアピールする。いや、多少の自分の落ち度はあえて見せるのだが、それだからこそいやらしさがある。救いがたいものがある。記憶はいつか妄想に変わる。それ自体はあたりまえのことだ。しかし、動かぬ証拠もある。それをまるでマジシャンの手つきで、いいようにつぎはぎしてあたらしい物語をつくる。

 あの人も、こういうことだったんだろうか。私はある人を思い出す。ひたすら加害を繰り返し、その場を出て行くことになったあの人。いまでも俺は被害者だと言っているのだという。もう一年前の話だ。時間が止まってしまったかのように、ひたすら俺は被害者で、お前らはひどいやつらだと言っているらしい。噂話だ。誇張しているのかもしれない。これも妄想かもしれない。これは私の物語だ。私は、その人にいまでもそうあってほしいと思っているかもしれない。その方が、私自身が被害者ポジションにいれるから。

 現実を直視することはできない。それぞれの現実がある。それが生きるということだ。どこまで共有できるのか。事実とするのか。あまりに捻じ曲げると、ズレが生じると、おかしなことになってしまう。誰もよりつかなくなってしまう。難しい問題だ。あいつも気づけば陰謀論者になっていた、そのくらいの悲しさがある。気になるあの子の頭の中は普通。普通だったらどれだけいいだろうか。みんな普通になれなくて、周りを疑心暗鬼して、自分の心の中がぐらぐらしているのに、それを周りが悪いと言ってしまう。自分の健康の損ないを、周りの不健康のせいにする。いつしかこういうことをやめれたらいいのだろうけれど。
 
 私はこうして毎日のようにnoteを書くけれど、これは自己治療だと言っている。でも、同時に同じことを書いて、自分の呪いを強化させている部分もあるだろう。思い込みを強化させてる。妄想を爆発させる。文字にさせて、それを自分で読んで、「ああ、やっぱりそういうことだったんだ!」と納得させる。自分で言ったことを、言葉にしてまるで他人が言っているかのように見せかける。文字はそのような機能があるような気がする。時間が経てば、自分からどんどんと離れていく。
 
 いつかまともになれたらいい。あなたのために。自分のために。妄想になるのは逃れられないのなら、せめてしあわせな、誰も不幸にしないような妄想を。
 まともになれることがないのだとしたら、せめて変わった陽気なやつになれたらいい。あなたのために。自分のために。まともがわからない。まともはいつまでたってもわからない。背中が痛いだけで、すべてを恨んでしまうくらい弱い私だけど、今日も笑って生きていけたらいい。誰かに微笑みかけれたらいいな、そう思っていることはきっとウソじゃないと思いながら、生きていくよ。やっていきましょう。そう、やっていくしかないんですよ。物語を作っている場合じゃなく、とりあえず笑って、目の前のことをじっくり見て、やっていきましょう。そうすればきっとなんとかなるでしょう。なんとかならなかったら、それはそれでいいでしょう。やっていきましょう。

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