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次こそは淋しい送別会を、と心に決める新年度

 新年度が始まりましたね。私の職場は年度替わりの人事異動が多く、毎年半数くらいごそっと入れ替わります。
 先週、年度末の送別会が一通りあり、今週は心機一転メンバーも替わり新しい年度を迎えました。

最近、送別会が淋しくない

 ここ最近、送別会の場で毎年感じること。
 別れそのものへの純粋な淋しさより、”別れに大して淋しさを感じない”ことがむしろ淋しい。
 言ってしまえば毎年、大半の人とそんなに仲良くはなれずじまいで、もっと仲良くなりたかったのにそうはなれなかったことへの淋しさを強く感じてるわけです。
 
 ただ普段、何でもない日常で仲良くなるための努力をしているかというと、ほぼ何もしてません。
 廊下ですれ違う瞬間、給湯室やトイレで鉢合う瞬間、残業を終えて帰る前…。
 仲良くなりたい気持ちは根底では持ちつつも、日々訪れるちょっとした喋る機会をいざ目の前にすると
「今、喋りたいとは別に感じない(というか話題が浮かばん)」
「今日はこのまますれ違って終わっちゃいたい、すっと帰っちゃいたい」
の気持を優先し一歩踏み出すことはなく、結局それを繰り返して年度末を迎えてます。
 しんどいなーという時なんか特に、「忙しくなかったら、元気な時の自分ならこうではないから…!」と積極的行動をとらないことの自分への言い訳にしているわけですが、結局一事が万事というか、ちょっとしんどくて余裕のない時に出てくる自分こそ、本来の姿で本性ですよね。

 そしてお別れの時になって今更、あぁもっと仲良くなりたかったな、或いは仲良くなりえたかもしれないのに、事実としてはそうはならんままだったな…と淋しさと共に年度を終えています。

遠慮の一線の向こう側

 学生の頃にはそんなに感じなかった、”一歩踏み込む”ことへの遠慮もかなり強く感じるようになりました。
 たまには後輩と食事に行きたいな、課の懇親会の後もうちょっと飲みたいな、ちょうど帰るタイミング一緒やから途中まで一緒に帰れるな、とか思っても、「いや迷惑かも?」という遠慮が頭をもたげて、一歩踏み込む、大袈裟ですが一線を超えることに抵抗を感じるようになりました。
 会話の内容もそう、話したくないことだったらと危惧して一線を引いてしまう。
 自分自身、先輩と正直そんなに関わりたいと思わなかった質でしたし、或いはこの一歩退くスタンスで良いのかもしれません。誰にも迷惑かけない、ウザがられない存在ではあると思います。
 ただ誰も傷つけることがなくても、その代わり誰かと濃い繋がりを得られることもありません。
 後輩の都合なんか考えずぐいぐい誘う、一線を超えてずかずか踏み込む強引な先輩は一部にうざがられこそしろ、そうでないと濃い人間関係は築けず、総体的に受け取る好意も多い気がします。
 誰かを傷つける、うざがられるリスクを超えた先でしか得られないもののなんと多いことか…。
 職場の人間関係に留まらず、友人になるかの境や、恋人同士になるかの境を跨ぐ時だってそうですよね。大事な人間関係は、リスクを冒して一線を超えた先でしか得られない気がします。

懲りずに希望を持ってみてもいいじゃない

 「年度初めには新たな環境・人間関係に新鮮味を感じてはりきるくせに、その勢いを維持できずやがて失速する」
 というのが、私のかつての一年のお決まりパターンでした。
 そしてこのテンプレを繰り返す内、最近は
 「年度初めにはりきってもどうせ失速するのは目に見えてるから、失速に備えて最初から頑張らないどこう」
 にまで堕落していました。

 自分が、いきなり明日から「そういう一線は積極的に超えていこう!」とぐいぐいいけるわけないことは自分で分かってます。今更大胆に自分を変えるのは正直厳しいものがあります。
 それでもこのままじっとしていれば、人間関係は先細るばかり、淋しさは増すばかりです。変わることを完全に諦めてしまえば、そこで人生終了です。

 せっかく新メンバーで迎える新年度なんだから、「今年はちょっと頑張ろう、人間らしい交流をしていこう」と懲りずに希望を持ちなおそうと思います。
 まず周りの環境が変わるということは、自分が変わるための一番のチャンスです。結局は失速するんちゃうかという予感はばりばり感じますが、それでも端からなんの意欲も希望も持たない、ということはやめにしようと思います。
 ”はりきるが結局駄目”をもう何年も何回も繰り返しつつ、それでも年度初めにはこうしてまた希望を持つことができているということに、今は希望を感じます。

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