20220306 待っている時、待たせている時
来ない返事を待つことは大変だ。
誰かが云ったことを思い出した。今や、レスポンスは早くて当たり前で、ぼくだってこの瞬間「来るはずだった、来ない、来てほしい」誰かからの返事を待っている。来ないことを証明するまでは、それは来てほしいメッセージといえる。少し苦しいけれど。
ぼくが小学生高学年になる頃まで、固定電話は現役だった。当時から、予期せぬ相手が出てくるこの「電話」というやつが嫌いだった。電話を掛けた相手の親兄弟、親族なんかに出ると、どう対応したものかわからないことがストレスだった。小学四年生の頃には少しは定型句を自分の中で作ってしまうことで、多少は電話をかける相手以外を呼び出してしまったことへの苦しさのようなものを紛らわせることができるようになったのを覚えている。
自分の問いかけや想いに対する答えをいつからこんなに求めるようになったんだろう。携帯電話を手にしたとき、学校の先輩と夜遅くまでメールしていた時、ツイッター以前のSNSを触った時、気になった相手と個人チャットを延々と続けていた時。色々な時間の中で、ぼくは自分の孤独感を他者に肩代わりしてもらうことで誤魔化していたことを痛感する。頼るということにもかなりの精神力が要る。
来ない返事に問いかけることが怖くなったのはいつからか、これはきっと返ってこない返事の存在に目を背けて、その人のことを忘れようとした時だし、その人たちとの時間をぼくの思い出に昇華させて「せめてぼくはこの思い出を大事に持っておこう」なんて思った時だろうな。ぼくはかなしみと仲良くやっていきたい、生きることは死ぬまで選択と訣別を繰り返すことだから。
あまり長文を書くような元気はないからこの文章を読んでよかったと思えるようなことを一つ書きたい。
くよくよしてるときは勇気を出して追撃したほうがいいし、返事がこないときは半年後、一年後、その又一年後に、何度でもメッセージを送り続けていいと思うよ。(あなたが迷惑条例防止法等で既に警告や処罰を受けていない限り)相手にはそれを拒絶する手段があるし、あなたのその気持ちを燻ぶらせておくのはあなたを苦しめてしまうから。
自分で誓いを立ててそれを守ることは、自分自身に一定の諦めを許容する勇気をくれる。でも、誓いを立てることは諦めを宣言することではないことに注意されたし。諦めるために誓いを立てることは自分のためにならない、一定の苦しさを自分の精神(魂)の糧として受け入れるための方便として、誓いを立ててそれを守るようにすること。
さみしさや苦しさはぼくらを不幸にするように感じるけれど、どこまでもこの迷える自分についてきてくれる唯一無二の随伴者たちでもある。さみしさに歓びを! 苦しさと幸福を。
ものごとは向き合い方がすべてだとぼくは考えます、あなたは?
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