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渋沢平九郎と顔振(かあぶり)峠

昨年から登山を始めた小生が師匠とともに顔振峠を訪れたのは令和2年(2020年)の3月15日でした。この顔振峠は渋沢栄一先生の養子である渋沢平九郎ゆかりの場所です。

顔振峠の標高はちょうど500mで、西武秩父線の吾野駅から1時間15分ほどの行程で秩父連山の山々と山村の美しい眺望を見渡せる茶屋に辿り着きます。あまりの美しさに義経と弁慶が奥州に逃げる途上、その景色を振り返りながら登ったという伝説から顔振峠という名前が付けられたといいます。

渋沢栄一先生は天保11年(1840年)に埼玉県深谷近郊(武蔵国榛沢郡安部領血洗島村)の豪農に生まれ、元治元年(1864年)に24歳で縁あって武家の一橋家に仕官します。

一橋慶喜が「最後の将軍」に就任した慶応2年(1866年)、渋沢先生は幕臣に取り立てられます。同年、まだ幕府が存続している間に徳川慶喜の弟・徳川昭武に随行してパリ万国博覧会の開催されるフランスや欧州各国を訪問する機会に恵まれ、近代産業システムを見聞します。その時に得た先進的な知識や経験が維新後の産業振興に大きな貢献を果たすこととなります。

「日本近代資本主義の父」と名高い渋沢栄一先生は新時代の日本の象徴のようなイメージがありますが、戊辰戦争では新政府軍と旧幕府軍の戦いの中で故郷深谷の人々や渋沢先生の家族は幕府側で戊辰戦争を戦うことを余儀なくされました。

渋沢先生の養子渋沢平九郎は洋行中の渋沢栄一先生の留守を預かることとなりました。平九郎が幕臣の子として仕官する間の慶応4年(1868年)1月27日、鳥羽・伏見の戦で旧幕府軍が敗走し、戊辰戦争が始まります。

新政府軍が江戸に迫る事態に直面し、平九郎は彰義隊結成に参画します。故郷深谷を含む上武諸州は彰義隊から分離して振武軍を組織しました。

渋沢先生が徳川昭武とともに帰国したのは、徳川慶喜が大政奉還の意思を伝えた慶応3年(1867)年10月よりも1年以上後の慶応4年/明治元年(1868年)11月で故郷の深谷(血洗島村)にようやく帰省したのは同年翌12月となります。

渋沢栄一先生の帰国前の慶應4年(1868年)5月23日、戊辰戦争の局地戦、飯能戦争に平九郎は振武軍の参謀として新政府軍との闘いに臨みました。振武軍はやがて新政府軍のゲヴェール銃の圧倒的な火力の下で劣勢となり、奮闘空しく敗走を余儀なくされます。敗走の途上、平九郎は故郷深谷へと通ずる越生(おごせ)を目指し、顔振峠(かあぶりとうげ)に逃げ込みます。しかし、追い詰められて黒山(入間郡越生町)で自刃をとげました。若干22歳という若さでした。

私が顔振峠を訪れたのは春先で、杉林から残雪が陽光に照らされながら降り注ぐ様が息を飲むほどにきれいだったのが印象的でした。もし、明治・大正の世に平九郎が生きていたならば、どれだけの活躍をしたことでしょう。とても惜しい人物を失ったものと思います。

来年の大河ドラマは渋沢栄一先生が主人公ですが、渋沢先生の留守中に起きた家族の悲劇について、NHKがどのように描くのかを大いに注視したいと思います。

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