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近代家族・洗濯機に反対した人(#29 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)

近代家族の登場(洗濯機に反対した人)

政策ニュース映画は、基本的には行政の施策結果を報告するものであり、インフラ等の目に見える設備等が題材になることが多くあります。
しかしそれら設備を利用するのはあくまでも市民であり、ニュース映像から垣間見れる当時の市民の姿は、設備以上に貴重な記録です。特に昭和2,30年代は、前近代的な社会のありかたが、経済発展とともに大きく変化して行った時代であり、政策ニュース映画は、産業をトリガーとしたある種の民俗学的な分析対象としての価値もあります。

「産業民俗学」的な素材として、ここでは家族形態に着目します。「近代家族」という概念があります。前近代的な家制度を支えていた家父長制と対比される概念であって、制度的な裏付けではなく、あくまで、家族の構成員それぞれが、相互に人格の尊重や愛情や信頼を有することで、家族が成立しているものを指します。

集団就職を含め、戦後地方から都市部に職を求めて移動してきた人々が、作り上げた家族は、元々都市部に地縁があるわけでもないし、また1次産業に従事したわけでもないので、大家族を必要としなかったため、この近代家族的なものとなっていきます。
その典型例が、核家族であり、それらは高度成長期に、都市部の中心的な家族単位となっていきます。

それは今でも社会の構造としては、大きく変わることはありません。21世紀になって、地域コミュニティの見直しやシェアハウスなど新しい生活単位が生まれてきていますが、それは高度成長の始まりから長い間続いた核家族などに対する、アンチテーゼでもあると言えます。

川崎の政策ニュースでは、直接家族構造や家のありかたを題材にはしていませんが、映像の所々に、当時の家族の姿を垣間見ることができます。
川崎の北西部は、農業を中心とした1次産業を中心とした地域で、昭和2,30年代は、鄙びた農村でした。

昭和32(1957)年7月17日、「町の有線放送」は、そうした農村である、「川崎市の西北端にある菅町」が取り上げられます。現在の多摩区菅にあたります。「多摩川桃、梨の名産地です。」と紹介されます。

その菅町に7月3日から市内初めての地域内有線放送設備ができあがりました。すでに、農業協同組合の放送室からは、毎日、桃などの出荷状況などが加入した500戸の各家庭に放送されています。これは、農協が新しい農村建設を目指して開設したものですが、放送の他、一般電話と同じように加入者間で通話できる便利なもので、町の人々に大変喜ばれています。

農村

電柱が並ぶ田んぼの畦道を、菅笠と藁蓑をまとったお百姓が、筵を積んだリアカーをとぼとぼ曳いていく、絵にかいたような、昔の農村風景や、茅葺屋根の典型的な農家が映ります。
これは昭和32年の7月17日付けのものですが、同時に、以前人口ボーナスのところで触れた「みんなで体操」が、上映されています。
既に、都市部と農部の違いを感じさせます。

都市

場面が切り替わると、ちゃぶ台を囲む家族が映ります。
宮本常一などが記録した、戦前の農家そのものの佇まいの、決して豊かには見えない居室に、祖父、祖母から二人の孫まで、三世代が映ります。
ここに、母親は映っていないのに気づくでしょうか。

なぜ、母親が映らないのでしょう。

家族

おそらく家事をしているのでしょう。これは、戸主と家督を譲った隠居を中心とした、旧来の家族の姿と思われます。
昭和32年は、高度成長期の入り口とは言え、まだ一次産業を中心とした地域は、生活の単位と労働の単位が一致していたため、こうした姿が一般的だったはずです。

こうした旧来の家制度の中では、家事労働が偏に嫁に担わされるため、特に高度成長期の洗濯機の登場を女性たちが歓迎したというような証言が、実感を持って理解することができます。

文藝春秋の2015年2月新春号「素晴らしき高度成長時代」には、姑が洗濯機の購入を頑なに反対したため、ずっと買えなかった家の嫁が、姑の葬儀の時に、「これで洗濯機が買える、死んでくれてありがとう」と心の中で思ったという、凄まじい証言などもあるくらいです。

考えてください: 
①なぜ洗濯機の購入を姑が反対したのでしょうか。
②平成になって、「無洗米」が出てきたときに、家庭の主婦は歓迎をしましたが、夫や姑は否定的な反応でした。なぜでしょうか。
③無洗米のメーカーはそうした反応に対して、ある販売戦略を取ることで、爆発的に受け入れられていきます。どういう売り方をしたのでしょうか。

政治や経済のシステムは急激に変わって行ったとは言え、人々の価値観や文化、そして家族の関係などは、決して一朝一夕には変わらないということを感じさせます。

このように、家庭における主婦の位置の他に、家族の変化に関しては、もう一点、指摘することができます。
新憲法の元で、家制度が廃され、さらに川崎のような都市部には、移動、流入してきた人々が多かったにも関わらず、人々の価値観として、家や家族を持つことが当たり前であり、そこから外れてしまった人々、例えば「母子家庭」に対して、どこか憐みの視線があるということが、この家制度の残滓とともに気になる点です。

エネルギーの項で示しましたが、昭和33(1958)年5月27日付、「カメラルポ 母子寮」の内容を観てください。以下のようなナレーションがあります。

この厳しい社会を母と子だけで生きていかなければならなくなった人たちのための母子寮、ここ川崎の中丸子母子寮には今、31所帯の母と子がおります。…疲れて仕事から帰ったあと、内職をしなければならない母を助けて炊事の手伝いをする子供たち。どんなに家庭的に恵まれていなくても、苦しみや寂しさにくじけずいつも明るく生きてゆく母と子供たちです。

この母子寮に関しては、昭和35(1960)年4月26日付「施設の子供たち」でも取り上げられます。

ここ中丸子母子寮には、34所帯の親子が慎ましく暮らしていますが、昼間は母親代わりの寮母さんを囲んで勉強に励んでいます。

とナレーションが入ります。特に強調した部分の表現に注目してください。余り好意的とは感じられない表現です、おそらく、あるべき家族の姿が社会にはあって、母子家庭は、そこから外れてしまったという捉え方がなされていたのではないでしょうか。

母子家庭

時代による価値観の違いというのは、特に過去に対しては否定することはできませんが、社会は多様性を許容する方向に向かってきたということだけは、評価すべきことかもしれません。

こうした家族の「あるべき姿」といった価値観は、時代が下って、核家族が当たり前になり、さらに女性も職業を持つようになっていくと、新たに登場してくる鍵っ子に対する視線にも繋がって行きます。

昭和35(1960)年4月26日付「施設の子供たち」で、最初に共働き家庭の子供の話題が登場します。

「両親が働いている子供たちを預かる大師保育園」と表現されますが、まだ鍵っ子という言葉はありません。また「共働き」という言葉は使われません。

鍵っ子

時代が下り、昭和40(1965)年10月26日付「留守家庭児に勉強部屋」で、初めて「いわゆる鍵っ子」という言葉が登場します。

いわゆるという表現があるように、まだ余り一般化していなかったと推定されますし、表題は「留守家庭児」というストレートな表現になっています。

鍵っ子2

昭和43年3月に、総理府が「かぎつ子の実態と対策に関する研究」との名称で調査を行っており、昭和40年の時点では、出始めだったようです。
「共稼ぎの多い団地の親たちにとって、いわゆる鍵っ子対策は悩みの種です。」とあるように、鍵っ子は団地の登場と切り離せません。
団地は扉を境に完全な密閉空間になるため、核家族という存在を強化しましたが、さらに一か所の鍵だけで防犯が可能なので、鍵っ子を多く生み出しました。

郊外に開発されたニュータウンも団地、あるいは住宅団地と称することがありますが、集合住宅としての団地が最初に登場するのは、昭和35(1960)年12月27日「丘陵地帯に続々団地」です。

そこでは「小田急沿線の高石には、住宅公団によって百合ヶ丘団地の第一期工事が完成しました。」とあり、団地の姿とそこで遊ぶ子供たちが映ります。

団地

これが、昭和40(1965)年10月26日付「留守家庭児に勉強部屋」に繋がっていきます。

「この古市場小学校では、校庭の隅に勉強部屋を作りました。授業が終わると、鍵っ子はそのまま勉強部屋へ。そこには、専任の指導員もいていろいろと面倒を見てくれます。…」

現在で言う、学童保育「放課後児童健全育成事業」にあたる事業とのようです。
放課後校庭で他の友達と別れて校庭にある勉強部屋に向かう子供たちの姿が映ります。「子供たちは大喜び」「父兄たちにも好評です」のように、過剰な表現になっているのが若干気にはなりますが、一般的な鍵っ子のイメージに対する川崎市なりのアンチテーゼだったのではないでしょうか。

戦後の庶民生活を描いた漫画には、しばしば鍵っ子が登場します。
著作権の関係で一部しか引用できませんが、押しなべて鍵っ子に対して、どこか哀れみを持った視点で描かれています。

サザエ

当時の資料を見て感じるのは、子供を鍵っ子にせざるを得なかった個々の事情、多分に経済的な理由でしょうが、それらに対する観点が抜け落ちている気がします。
終戦後の慢性的な住宅不足もあり、都市部で家族生活を営むのは決して容易ではなかったでしょう。共稼ぎをせざるを得なかった家庭が多かったはずであり、政策ニュース映画では、鍵っ子を否定的に捉えるということはしていません。

他に近代家族の登場を見ることができるのは、昭和31年7月18日「工都に市営最大の住宅群」が挙げられます。

多摩川の渓流に沿う中野島に、150棟、250戸の市営住宅を完成、7月9日から、1200名に及ぶ集団入居が行われました。

これは現在の多摩区中野島近辺ですが、木造平屋建ての住宅群が立ち並ぶ姿が映ります。居住者の引っ越しが行われていますが、近隣の御用聞きと思われる半被を着た若い人たちが、ミシンや布団などを運んでいます。基本的に若い人しか映らず、老人はいません。住居の大きさからしても、明らかに核家族と思われます。 
市営住宅や公団団地など、こうした新しい住戸に暮らす人々は、家制度の軛を脱する代わりに、旧来家によって継承されていた、家督の他、様々なものを失います。
こうした若い家族にとって、最も大きな課題の一つは、育児だったのでしょう。「町の有線放送」昭和32年の菅町に映るような、旧来の家においては、嫁は家事労働を担う代わりに、赤ん坊の世話は姑が行っていたということが、映像からもうかがえます。そこでは様々な生活の知恵も継承されていたのでしょう。

核家族に対しては、社会的な支援が行われるようになりますが、それらの記録が、以下に残っています。

昭和29(1954)年2月24日 母親学級
昭和31(1956)年8月15日 お母さん達のお勉強ー育児学級ー
昭和36(1961)年6月27日 赤ちゃんの保育園誕生
昭和38(1963)年4月23日 楽しい育児を

このように、かつて家制度の中で、姑が主に担っていた機能が、行政によって提供されているのがわかります。
人が流入するということは、新しい文化を作り上げることであり、川崎は工業都市として、戦後の高度成長期にいち早くそういった経験をしてきています。旧来の家制度に代わる様々な行政サービスが、新たな文化を作り上げてきたと言えるでしょう。

ちなみに、洗濯機の購入を姑が反対したのは、嫁が家事で楽をするのが許せないという、姑のメンタリティだったと言われています。無洗米に夫や姑が反対したのも、洗濯機と同じように、嫁が楽をするのが許せないという理由がありました。そこで無洗米は、「手間が掛からない」ではなく「環境にやさしい」という側面にフォーカスを当てて販売して行きます。

テクノロジーは明らかに社会を変えて行きますが、その前提として、それを社会の側、消費者がどう受け入れていくかという要素もあるということがわかります。




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