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過疎地が増えること

 2020年の国勢調査を元にした、新たな過疎地として指定される自治体が発表された。
 それによれば、22年度に、27道府県65市町村が過疎として指定される。新規指定のうち、全域が過疎地域となる「全部過疎」は36市町村あり、平成の大合併以前の旧市町村を過疎地域とみなす「一部過疎」は29市町である。また、過疎指定から外れる市町村はない。
 全域または一部が過疎地域に指定されている自治体は2021年4月の時点で、820市町村あり、うち全部過疎地域は650か所である。今回、新たに過疎指定がなされることで、過疎地は885市町村に上る。全基礎自治体1718市町村の51.5%、すなわち過疎地が日本の半数を超えたということが、センセーショナルに伝えられている。ちなみに、全部過疎地域は686市町村となる。

「地方の衰退が深刻化し、政府の地方創生策の実効性が改めて問われるのは必至だ。」

 といった指摘がなされているが、地方の過疎と都市部の過密は、戦後の復興から高度成長に掛けて、日本社会の本質的な転換に伴って起こって来たことの一つの表れであり、昨日今日の問題ではない。ゆえに、地方創生政策だけに任せるようなことでは決してない。

 都市部の若い世代は、過疎のことなど全く知らないだろうし、このニュースの持つ意味でさえ、大半はきちんとは伝わらないだろう。こうした背景から、特に自治体側の情報発信は、一自治体だけの問題ではなく、もっと大きな、社会的な役割を持たざるを得ないと考えている。

過疎地って何?

 過疎地とは、現行の「過疎地域自立促進特別措置法」で定められているが、時代背景を反映した法律の改正によって、条件となる指数が変化して来ている。時代や国境を超えた意味を持つわけではないし、恐らくここが最も重要な点だが、蔑むような意味を持った言葉でもない。
 過疎地域の指定は、簡単に言えば、人口の減少が著しく、さらに財政力の低い市町村が対象となる。そして、それによって政府が様々な支援をしていくことになる。大原則で言えば、昭和50年(1975)年から平成27(2015)年まで、40年間の人口減少率が0.28以上、つまり約3割以上の人口がその市町村から減少していること、さらに自治体の税収入と需要額の割合を示す財政力指数の過去3年間の平均値が、0.51以下であること、こうした条件で過疎自治体が指定される。

 総務省が、全自治体の細かいデータ分析によって指定しているわけであり、この細かい要件をきちんと知るということは、余り重要なことではないだろう。むしろ問題はどの市町村が指定されているのかということと、この国で過疎地が生まれて来た理由はどこにあるのか、この過疎に関するミクロとマクロの両面を知ることである。

新たに全部過疎として指定される自治体は以下の通りである。

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 例えば新たに過疎地域として指定される地域の一つに、北海道の別海町がある。根室振興局管内、いわゆる道東にあたり、北方領土を望む町としても知られている。ここは面積が1,319K㎡あり、町としては日本で3番目に広い自治体である。原野を切り開いて造られた牧場が町域ほぼ全般に広がっており、Wikimediaにも、以下の図のような画像がたくさんある。令和3年末の時点で、同町の人口は14,552人だが、飼育されている牛の数は110,679頭なので、人間の7倍もの数の牛がいるということになる。こんな広大な場所を、自治体だけで、つまり住民の税金を中心に維持し運営していくこと自体、相当に難しいことだというのは容易にわかる。

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別海町の牧場(Wikimedia)

 元々同地は、明治時代から開拓が行われて来たが、昭和に入って農業から酪農への転換が進み始める。そして昭和31(1956)年から世界銀行の融資を受け、機械による開拓が行われた結果、広大な酪農地帯を形成したという歴史を持っている。元々、広大な土地を有する地域だったので、例えば人口減少社会においては、その影響を大きく受けることになるわけである。過疎という状況の発生に関しては、その地域ごとに固有の事情があるわけで、過疎そのものを、余り一般化して捉えては駄目だろう。

 昭和45年に「過疎地域対策緊急措置法」が定められて以降、政府は衰退が続く地方の活性化を、重要課題に挙げて来た。特に、2012年末に発足した第二次安倍政権は、「地方創生」を看板政策に掲げ、東京一極集中の是正などに取り組んで来た。しかし過疎自治体はさらに拡大して来たわけであり、その結果が、886もの過疎市町村ということである。
 このことについて、毎日新聞のニュースサイト(https://mainichi.jp/)では、以下のように指摘している。

「過疎自治体のさらなる拡大が判明したことについて、総務省幹部は毎日新聞の取材に「重く受け止めている。このままでは行政サービス・社会保障など社会の基本機能の存続も危うい。地方維持の議論は待ったなしだ」と話す。」

 確かにその通りであり、状況は待ったなしなのだろう。しかし、昭和45年から既に50年以上経っており、いろいろ理由もあるのだろうが、その間に何をやって来たのだろう。政府が、ということではなく、この国の全ての人への問いかけである。

竹下ふるさと創生1億円事業は愚策だったか?

 例えば今から35年前、昭和61(1986)年からこの国はバブル経済に突入したが、当時都市部で働いていた自分の記憶では、地方のことなど、誰も気にしていなかった。実は、昭和63(1988)年から平成元(1989)年(平成元年)にかけて、当時の竹下政権によって、各市区町村に対し地域振興のために1億円を交付するという政策が行われた。通称、「ふるさと創生事業」、あるいは「ふるさと創生一億円事業」とも言われるが、これは、その後の地方創生に先立って、地方の課題を明らかにしたものと言われている。しかし、配布された1億円の使い途を見る限り、今に繋がる地方の課題に対して、当時の地方自身が果たして自覚的だったのか、疑問に思わざるを得ないのである。
 あえて指摘することではないが、1億円で劇場や博物館、美術館を建設するなど、いわゆる箱物に投資した例や、モニュメント、オブジェなどの制作、金塊の購入、挙句の果てには村営キャバレーの経営などが行われた。

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1億円金塊(Wikipedia)

 この村営キャバレーは、1億円事業の中で、特にセンセーショナルに語られることが多い。誇張や誤解などもありそうなので、このケースだけ、少々調べてみた。

 これは秋田県にかつてあった仙南村の事業である。仙南村は、秋田県の中央部に位置し、2004年11月に、平成の大合併として、隣接する千畑町、六郷町と合併し美郷町となり、消滅した自治体である。

仙南村は、地史を見る限り、昭和31年の発足以降、
 1967年12月 誘致工場三共光学秋田レンズ工場完工式。
 1971年10月 国道13号金沢バイパス・六郷バイパス完成。
といった企業誘致、インフラの充実から、
 1973年4月 1歳未満の乳児医療費無料化。
 1975年4月 知的障害者更生施設「後三年更生園」開園。
 2001年4月 出産祝い金制度導入。
 2002年6月 シルバー人材センタースタート。
などの福祉関係政策に、
 1992年4月 複合温泉施設「湯〜とぴあ」オープン。
 1993年7月 「プールパークSENNAN」オープン。
などの、観光娯楽施設の充実などが施策として行われ、
 2001年8月 村内14施設に地域インターネット整備。
 2004年1月 千畑町・六郷町との3町村光ファイバー「地域イントラネット」開通。
というように、近年ではネットワーク環境の整備など、先進的な地域政策が実施されてきたことがわかる。「太平洋戦争前は、50町歩以上の大地主が多い地として知られていた。」との記載がWikipediaにはあるが、それほど財政的にもひっ迫した地域ではなく、かなり充実した政策が行われていたようである。

 通称村営キャバレーと呼ばれている施設は、「フォーラムハウス遊遊」という場所のことらしい。当時の秋田県広報誌にも取り上げられたらしいが、サイトである「秋田県広報ライブラリー(広報誌・紙)」は、現在閉鎖している。

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秋田県広報誌

 入手できた当時の広報誌には、同設備のことが書かれているが、レーザーディスクカラオケやトレーニングルームなどを供えた村営酒場として紹介されており、どこにもキャバレーの文字はない。おそらく、豪華な革張りソファーとか、過剰な装飾が誤解を生んで、当時のバブル経済下での風潮と併せて、村営キャバレーと称されるようになったのではないかと推察できる。
 しかしどうも、都市部の人間が想像するような、キャバレーというようなものではなく、今で言う、総合娯楽施設のようなものだったようである。また、同村の政策を見て行く限り、いわゆるナショナルミニマム自体は充足しており、自治体としても問題があったわけではなかったようである。勝手な創造でしかないが、地域に足りないモノとして、都市型の娯楽施設を想定したのではないだろうか。これを「地域の男性だけが楽しむための無駄遣い」と評してしまうのは、余り正しくは無いだろう。
 おそらく、当時の地域に対する予期しない予算を消費するための施策としては、それほど愚策とは言えないのではないだろうか。少なくとも、インフラの他にも地域の暮らしを高めるためのものとして考えられたものなのは、間違いない。

 但し、その後に顕在化していく、高齢化、少子化、そして過疎化に対する意識が十分あったかと言えば、それはやはり疑問が残るのは否定できない。
この仙南村だけでなく、各地それぞれ、各地なりの事情や判断があったのであろうから、断言はできないが、どう見ても地方が過疎という課題を、切実なものと考えていたとは思えない部分がある。あの頃、まだそれほど少子高齢化が顕著ではなかった時代に、つまり「待ったなし」ではなかった頃に、もっとやるべきことはあったろうにと、今だから思ったりする。

 結局、誰も実態を知らなかった、あるいはそのことに対して自覚的ではなかった、そういうことではないだろうか。おそらくこうした社会の課題、地方の課題などに自覚的ではない人が、国民の大半だろう。当時の自分も、まさにその一人だった。

止められない過疎化、限界化に向けて

 現在では、それぞれの地方で、その地域の活性化や振興に向けた活動をしている人や団体が多く出てきた。それは、とても貴重な存在ではあるが、過疎地自体、現在820か所ある。ある地域の応援をすることも重要なのだろうが、それは得てして、サバイバルゲームに陥りがちなのである。その一つの表れとして、地域の外部からその地域の活性化などを主導する場合には、結局はその地域を自分の思う通りにプロデュースしたいだけじゃないかと思ったりするようなケースもある。地方創生には予算が割かれているし、特に昨今話題のSDGsなどを標榜すると、注目も集めやすいだろうし。

 最も重要なのは、地域は自治体なのであって、自らのことを決めるのは自分たちであるべきだということである。余所者が行って、その場所を盛り上げようなんてことは、少なくとも我々はやりたくなかった。例えばどこかの限界集落で、都市部の女子大生がそこに行って、豊かな自然や食べ物をプロモーションするなどといったことをするとしたら、果たしてそれは適切なことなのだろうか。元々循環型の経済と生産で成立している地域に、SDGsなどを持ち出す理由は無いだろう。

 人には必ず終わりの時が来るように、集落、地域にも終わりが来るということは考えねばならない。最近では、「村じまい」とか「村看取り」といった言葉も聞くようになって来た。地域のことは地域で決めればいい、でもそういう場所がこの国にある、過疎地という場所があって、集落が生まれた理由と歴史があり、人々の営みがあるということを、少なくとも多くの人々が知ることだけは、重要なことだと我々は考えている。

 ここまで述べたように、2022年4月に新たに過疎地が増えるが、この後、さらに自治体の併合「令和の大合併」が行われる可能性は高いと思われる。平成の時にも、名前が消えてしまった地域はたくさんあったが、この後も名前だけではなく、地域そのものが消えてしまうケースも増えるであろう。それをそのまま忘れ去ってしまうことは、決して健全なことではないと我々は考えている。

 2022年2月から、東京都渋谷区主催で「未来に伝えたい渋谷を残そう」というInstagramを使ったフォトコンテストを展開している。

しぶや

 昭和の時代、渋谷にはかつて「恋文横丁」という呼び名の小路があった。終戦直後、英語で手紙を代筆してくれる代筆屋がいたからそう名付けられ、丹羽又雄の「恋文」という小説にも描かれた、昔の雰囲気を残す小路だった。今は存在していない。実は筆者は行政書士の資格を大学在学中に取得していたので、ここで少しだけアルバイトの真似事をしたことがある。と言っても恋文ではなく、申請書類の作成だったが。

こいぶみ

写真(よろず~ニュース)恋文横丁跡

 渋谷区で言えば、渋谷区代官山町に代官山アパートメント、渋谷区神宮前四丁目に青山アパートメントという、大正時代末期から昭和時代初期にかけて建設された、通称同潤会アパートという鉄筋コンクリート造の集合住宅があった。戦災を超えて残った、風情のある建物だったが、今は跡形もなくなっている。東京都渋谷区神宮前1丁目にあった旧原宿駅は、1924年に竣工した木造建築で、都内で最も古い木造駅舎だったが、2020年には新駅に変わった。ここまで昔の景観を消しておいて、今更何を「未来に伝えたい」んだろう、いろいろ事情はあるのだろうが、筆者はそう感じている。
 渋谷区だけではなく、東京は破壊を繰り返して来ている。これだけでも、都市部のあり方は、どこか健全ではないものを感じるのである。この場所こと、SDGsがまず必要だろうに。

 だからこそ、変わらないものがある過疎地に、もっと目を向けて行く必要があるし、もっときちんと過疎そのものを、深く理解しておく必要があるのだと考えている。

過疎地に関する基礎知識と諸々をまとめた本を電子書籍化しました。

過疎自治体、650市町村のポータルサイト「過疎自治体ファンクラブ」を3月27日にリリースしました。こちらも参照ください。


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