見出し画像

交通機関(#45 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)

交通機関・川崎市電(市電の活躍と廃止)

政策ニュース映画は、自治体の施策の記録ですので、特に昭和2,30年代は、交通機関を中心としたインフラの整備が多く取り上げられています。以前、無軌道電車(トロリーバス)について取り上げましたが、ここでは市電について取り上げます。
都市における交通機関としては、通称チンチン電車と呼ばれている路面電車が、戦前から戦後にかけての主要な交通機関でした。
路面電車は、併用軌道と呼ばれる、道路上に敷設された軌道を走行する電車のことです。

チンチン電車

川崎市の市電は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年に、バス・トラック輸送が燃料不足のために不能となったため、港湾部にあった軍需工場に通勤する人々のために敷設されました。
戦後は路線の延長や複線化など整備を進め、川崎市民や工場通勤客の足として順調に伸びて行きました。
当初は、バスと並び、戦後の重要な市民の足として期待されていました。しかし路面電車は、電車とは言え、道路交通法では「レールにより運転する自動車」と定義されており、路面電車にも信号が適用され、さらに軌道上の自動車の通行が禁止されていました。
特に川崎市の場合、トラック等の大型自動車が多かったせいもあり、戦後急激に増加した自動車に押され、さらに川崎鶴見臨港バスと川崎市バスによって、路線が奪われ、経営合理化のため昭和44(1969)年に廃止されました。

戦後の市電の活躍と廃止までの記録が、ニュース映画には残されています。
一番最初に市電が取り上げられるのは、川崎駅の項でも取り上げた、昭和28年10月21日付けの「伸びる市民の足」です。

昭和28年10月21日 伸びる市民の足

人口が増えて、ますます人の往来が激しくなる川崎市では、交通問題が頭痛の種となっています。市の交通網は、市電、トロリーバス、それに、全長58キロのバス網が、市民の足として利用されていますが、このほど、市の西北部、日吉・井田方面と、東南部の大師・市営埠頭方面の交通の重要性から、新たに、市営バスを開通することになり、すでに10月1日から、この二線の運転が開始されています。

市民の足

ここでは、上のように、当時の川崎市の交通機関の概況が示されます。
乗車人数に対して、市電、バスともに少ない車両で対応していたようです。
昭和32年の同タイトルの映像では、特に通勤ラッシュが映りますが、市電はごくわずかしか映りません。このナレーションは、市電が消えていった理由がよくわかるので、以下に引用します。

昭和32年10月21日 伸びる市民の足

ナレーション人口が増えるに従って頭を悩ますのは、まず交通の問題です。特に工場街をバックに持つ川崎市は、朝夕の通勤ラッシュをさばく交通機関は一苦労です。…東日本のトップを切って誕生した市自慢のトロリーバスがメインストリートから工場街へと走り、また市電も駅前から工場地帯を抜けて港へと走っており、縦横に広がるバス路線とともに、交通網は万全です
ところが住宅地はますます辺鄙な郊外へと進出する傾向にあり、そうなれば、当然交通網をそこまで広げる必要が出てきます。そこで、このほど、市交通局は、バス路線の蔵敷線を柿生まで延長、また井田線を新城まで延長し、このほか、馬編線を創設するなど、市民の足として、おおいにそのサービス向上を目指すことになりました。

トロリーバスや市電は都市部のみのインフラで、川崎郊外の住宅地の開発に対しては、やはりバスが中心になったことがわかります。自動車の増加で交通の邪魔になったということに加えて、こうした郊外の開発も市電の廃止に大きな影響を与えていたということでしょう。

その後、昭和36年4月25日「人口65万人の玄関」でも、通勤ラッシュの話題と共に、市電も僅かに映りますが、以降映像にもナレーションにも市電は全く登場しなくなります。
時代が下り、昭和44年4月に市電の廃止セレモニーが取り上げられるのが、市電の話題の最後です。

昭和44年4月22日 春二題

25年間市民の足として活躍してきた川崎の市電が、3月31日に廃止されました。昭和19年から、長い間通勤客の足として、川崎駅前から工場地帯まで、チンチン電車と呼ばれ親しまれてきました。しかし、道路交通の波に揉まれ、他の都市の電車と同じようにその席をバスに譲ることになりました。
25年の歴史を持つ電車には、人々が名残り惜しげに乗っていました。最終電車が路上から消える深夜、関係者と市民はお別れ式を行い、ワンマンバスへのバトンタッチを無事終了しました。

ここでは、車掌さんが切符を切るなどの社内の様子も映ります。
運転手が席を離れて乗客とおしゃべりする様子など、かなりのんびりした印象です。おそらく昭和20年代後半の市電の最盛期には、社内の様子などは映せなかったでしょう。

市電2

ねんねこを来た子守りの女性など、人々の風俗も興味深いものがあります。見る限り、子供や生徒などが多く、通勤客というよりは、通学や本当の市民の足といった感じです。その意味からも、3月の年度の終わりと併せて廃止されたことが非常に印象的です。

この川崎市電の最終日に関しては、多くの市民が集まったことが記録されています。昭和40年代の半ば、高度成長期のピークでもあり、敗戦後の混乱を脱し人々は、明らかに豊かになってきています。夕刻に戻ってきた最終電車に対してフラッシュが炊かれますが、カメラを持ったアマチュアカメラマンも映っています。

市電

当時撮影された写真を集めたサイトがあります。その中に、この日の様子を写した写真もあり、当日のことがより明らかにわかります。
そのサイトでは、「最終日は月曜日。平日なので撮影に訪れる社会人は極少なく、市電はお別れに乗車する市民を乗せ粛々と運行されていた。」と説明があり、若干寂しい様子ですが、映像に残る最終電車の模様はもっと賑やかです。
写真も映像も、対象を切り取った記録ですので、どちらが正しいかという問題ではなく、より多くの記録があることで、より多くのことがわかるということの一つの現われでしょう。こうした市民の記録を整理していくベースとしても、こうした政策ニュース映画は使えると考えています。

しかし、こうした過去に撮影された個人写真を公開する上で、気になることがあります。このサイトでもそうですが、個人の顔がはっきり写る部分については、ぼかしや目線が入れられるなど、処理がなされていることです。
どう考えても、例えば昭和44年の3月31日に、川崎市電を運転していた人の顔がはっきりわかったとしても、その人に何らかの不都合を与えるとは思い難いと言えるでしょう。

各地域に残る多くの政策ニュース映画が、なかなか公開されていない一つの理由に、こうした過剰な個人情報にまつわる処理があります。
記録の保存、継承と言う観点からは、残念なことと言えます。

※トップ画面は、Susumu Sekiguchiさんの「路面電車」の画像をお借りしました。夕景の路面電車は、心のどこかを擽ります。これは、昭和生まれだけではない感覚だと思うのですが。
感謝申し上げます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?