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エネルギー革命(#48 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)

薪や炭から石油、ガス、電気に

人間にとって、エネルギーは無くてはならないものですが、火を発見し利用するようになったことを第一次エネルギー革命と言い、18世紀後半に石炭を利用する蒸気エネルギー機関の発明によって、化石エネルギーを利用するようになったことを第二次エネルギー革命と言います。
 
20世紀以降、石油やガス、さらに電気が新たなエネルギー源として利用されるようになり、それを第三次エネルギー革命と呼んでいます。
1950年代に、中東やアフリカで大油田が発見されたことを背景に、日本では、昭和37(1962)年10月の原油の輸入自由化が行われ、中心的なエネルギーが、石炭から石油や天然ガスへと転換して行きました。

以降、石油は大量に安く供給され、交通機関、暖房用、火力発電などのエネルギーのほか、石油化学製品の原料として、消費量は飛躍的に増えて行き、人々の生活も大きく変わって行きました。
こうした高度成長期のエネルギー革命は、政策ニュース映画からいろいろ見ることができます。

エネルギー

例えば、昭和30年代から本格的に埋め立てが進んだ浮島町と千鳥町を端緒に、石油コンビナートをはじめさまざまな工場が新たに建設されて行きます。

昭和32年1月23日 躍進「川崎」
昭和37年1月23日 人口100万都市をめざして
この2編には、埋め立て地に石油化学工場を中心とした大工場の建設が行われている様子が映ります。産業面でのエネルギー革命の始まりです。

人口増加率全国一を誇り、工業都市として飛躍的な発展を見せている川崎市。埋立地には石油化学工場を中心とした大工場の建設が行われています。一方、内陸地帯にも続々と工場が立ち並び、目覚ましい産業界の進出を示しています。
人口100万都市をめざして

昭和40年になると、昭和39(1964)年6月16日に起こった新潟の大地震での石油コンビナート災害を受けて、石油工場の防災が映像化されます。

新潟

産業レベルでは、既に完全に第三次エネルギー革命が達成したということでしょう。

昭和40年9月28日 石油工場の火災にそなえて

京浜重工業地帯の中心部川崎の海沿いには、石油タンク工場が立ち並んでいますが、地震による石油タンクの火災は、過去の新潟地震の例もあり、心配されています。このため、市では、9月1日の「防災の日」、石油タンクの火災に備えた、大規模な消防訓練を行いました。
石油工場の火災にそなえて

こうしたエネルギー革命は、工場、港湾だけではなく、家庭の中にも大きな変化を起こしていきます。経済的に捉えると、マクロからミクロへということになるでしょうか。
家庭の暖房や調理用具も、木炭、石炭から、石油、ガス、さらに電気を用いた器具に変わって行きますが、政策ニュース映画の中には、それらの変化を捉えた映像がいくつも含まれています。
キャプチャを纏めてみました。

家庭エネルギー

左上は、昭和28年12月16日付け「ネズミの駆除は今がチャンス」からのものです。
この当時の一般家庭の炊事場の様子ですが、恐ろしく何もありません。
現代ならばレンジがある場所には、塩か味噌の壺と鍋しかありません。おそらく、煮炊きは別に竈があってそちらでやっていたのでしょう。流しが「人研ぎ(人造石研ぎ出し)」というセメントに石を混ぜて作ったものです。

以下は、昭和33年5月27日「カメラ・ルポ母子寮」からの映像ですが、この時点ではまだ薪や炭を使って煮炊きをする竈や七輪が使われていたことがわかります。
この「カメラ・ルポ母子寮」は、当時の母子家庭を取り上げたもので、以下のようなナレーションが入ります。

この厳しい社会を母と子だけで生きていかなければならなくなった人たちのための母子寮、ここ川崎の中丸子母子寮には今、31所帯の母と子がおります。どんなに家庭的に恵まれていなくても、苦しみや寂しさにくじけずいつも明るく生きてゆく母と子供たちです。

当時の人権感覚ですので、ストレートな表現をしていますが、そうした時代において、既に社会福祉政策を充実させていた川崎市の政策には改めて気づかされる点が多々あります。
右下だけ、昭和33年7月22日「生れかわる農村」からのもので、当時の台所の様子がうかがえます。当時の家では、最も日の当たらない場所に水回り、台所があり、嫁にはその場所が与えられているという、家制度の象徴のような存在が台所でした。
この後、公団団地が核家族を想定した、ダイニングキッチンを中心とした家の構造を提起し、またステンレスの流し台を採用し、エネルギー革命が完遂していくということになります。

コークス

上の画像は、昭和35年1月26日「川崎市に簡易保育所」からのもので、学校などでは比較的後の時代まで、石炭やコークスを使った暖房器具が使われていました。
下の画像は、昭和44年11月25日「火のもとをもう一度」からのもので、台所には既にガスレンジがあり、火災の原因として電気器具が気にされてきた様子がうかがえます。当時のシンプル極まりない配電盤が映ります。

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こうやって見てみると、日本の戦後の復興とこうした世界的なエネルギーの転換が一致したのが、奇跡のようにも思えます。と言うよりも、社会のニーズが、石油へのエネルギーの転換を見つけ出したと言えるのかもしれません。
今我々が抱えている、ある感染症の影響によって、授業やコミュニケーション、ビジネスなどがオンラインに移行せざるを得ない状況にいますが、後から考えると、Internetとそれを利用した双方向コミュニケーション技術が、そのニーズに間に合っているということが奇跡のように思われるかもしれません。これもエネルギー革命と高度成長のように、何らかの必然だったのかもしれませんね。


※トップ画像は、さっちさんのノスタルジックな台所の写真をお借りました。都市で団地が生まれるまでは、水回りは、こうした家の中で日の当たらない場所にありました。いろいろ考えさせられます。
さっちさんに、お礼を申し上げます。



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