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社会が集団であるという解釈が個体差にあたえる影響

これまで写真をつかって時間をカタチにする作品を制作している安野さんの作品を鑑賞してきた。安野さん作品は2019年以来である。
今作のタイトル”個と社会”は、時間とは関係なさそうであるがそのアプローチに秘密がありそうで、社会というなにかの集団が個体差に与える影響を考えてみた。参照先の記事は前回のものとアーティストステイトメント

0,個と社会 An individual and society

2019年末遠隔の地で発生した新しいウィルス感染症は、あっと言う間に私たちの身の回りまで拡がりパンデミックとなった。今までとは違う日々の暮らしの中で私は「社会(集団)」とは何か?「社会」に於ける「個」の在り方とは何か?そしてそもそも「個」とは何なのか?と言った事を考える機会が多くなった。そしてそれを作品として視覚化してみようと考えた。「個」とは何であろう。「個」という概念は「社会(集団)」が在って初めて成立する。集団の最少単位は2人、つまり自分以外の誰かの存在なしに「個」は成立しない。また「社会」という概念も脳が作るものであり、私たちは脳の中で起こる事を現実と思ってしまう。

自分とは、在るというよりむしろ自分に向かって語り出されるものであり、自己のアイデンティティとは自分が何者かを自分に語って聞かせるストーリーである。また、生物学的にいうと自分とは現在位置の矢印であり、自分と世界の区別は脳の線引きによるものだ。

つまり、自分にだけ固有なものを自分の内部に求めても何も無いのだ。誰かある「他者にとっての他者」、そのあり方の中に人は自分の存在を見出すことが出来る。「私」が「私」である為には「他者」が必要であり、自分の行動が他者に及ぼす効果によって人は自分が何者かを知ることが出来る。
そしてその先には差別というものが必然的に存在する。私」とは一定の差別の上に初めて成立する存在にすぎない。誰かを非私として差異化する事で「私」が存在する。私達は、性・職業・国籍・年齢・性格などカテゴリーに沿って自らを区分し、人々に共通の座標系の中に位置付けることで初めて一人の「人」となる。


It is news of the display of the new work. I participate in a group exhibition. 11/16〜11/21in art space X of the Aichi...

Posted by Tooru Anno photography on Tuesday, November 16, 2021


1,ワークインプログレス

今作の手法としてワークインプログレスがとられている。
プログレスとは、準備中、進行中、工事中の意味で、作品の中に制作の進行を手段として取り入れる試みである。鑑賞者は、準備された枝を1つ、リボンを白、黄、黒の三色から1つ選択し、展示空間内にある任意の鉢に設置する。設置する枝にはリボンを結ぶ。会期の最終日に作品は完成するようだ。
展示空間の壁には、準備された枝と思われる写真が3枚あり、集合と孤立の組み合わせを提出さている。

制作中は作者は、個であるし個を意識する、、というか、ずっと孤独である。それに対して、ワークインプログレスでの制作は個ではなく、自分以外のだれかの介入を必要とする。もし個を定義するのが集団ならば、集団の最小単位である2人で成立するようにできている。

2,制作者といっしょに歩む目線

作品の手がかりは、事後的なエヴィデンスになるように作者が設計するものである。それがステイトメントだったり作中のテキストであったりする。
このとき、鑑賞者は完成をみたあとに起点を探すための探求をはじめる。

それに対してワークインプログレスの場合は、作品は完成していないので鑑賞者と作者は、制作という約束のもと作品への視線が一致する。このとき、個と集団の区別はあいまいになってくる。

尚、エヴィデンスの言及は個別に記事にしているので、必要に応じて参照されたい。

3,表現方法の制約の設定=制作を定義するもの

展覧会が開催された愛知芸術文化センターの展示室の1つであり、表現するに制約があったとのことだ。例えば、展示室の制約で生ものはNGなので、乾燥させたものを準備している。また、それ以前にもあったプランを大幅変更する必要があったとのことで今回のプランに至っている。
言い方を変えると、展示室の制約がなければうまれなかったかもしれないワークインプログレスのプランであり、展示室の制約が作品を生成したと言えるかもしれない。こうしたエピソードからも社会(展示室)の制約が個(制作)を規程している構図ができあがっている。

4,ホワイトキューブ=理想求めるための制約と翻訳

理想の展示空間の概念である。本来展示室はホワイトキューブを念頭につくられており、外部からのノイズ保護により、空間内ではより純粋な鑑賞体験をすることができる。愛知芸術文化センターの展示室では、ホワイトキューブを保護するための施策としてルールが設定されており、それが作品制作の制約として立ち現れている。

白い立方体(ホワイト・キューブ)の内側のような空間的特性を指していう概念。アメリカの美術批評家、作家ブライアン・オドハーティBrian O'Doherty(1935― 、パトリック・アイルランドPatrick Irelandの名で美術作家としても活動している)が、1975年1月にロサンゼルス・カウンティ美術館で行った講演「ホワイト・キューブの内部で――1855―1974年」Inside the White Cube, 1855-1974で提起したのが始まり。

5,”この瞬間”がつくる”この私”

自分以外の誰かの存在なしに「個」は成立しない。また「社会」という概念も脳が作るものであり、私たちは脳の中で起こる事を現実と思ってしまう。

リボンがついている枝が鉢に刺さった瞬間だけが今であって、それが痕跡になった時点で過去になるかもしれない。もしかしたら、これも脳の中でおこる現実の1つかもしれない。ステイトメントに書かれている1文をみて思ったことだ。

こうした構図が写真の歴史にもあてはまる。アンリ・カルティエ=ブレッソンはこの瞬間を写真として発表している。鑑賞者が実行する一連の動作は、ブレッソンがこの瞬間にシャッターを押すように、鑑賞者もこの瞬間をつくることであり、行為における写真なのかもしれない。

ステイトメントにある”現在”をブレッソンの言い方に翻訳すると、”この瞬間”である。もし”この瞬間”が自分を規定するものであったりベクトルそのものであるならば、”この瞬間”における自分は、”この私”と翻訳することができるかもしれない。この瞬間に存在する自分という概念である。

自己のアイデンティティとは自分が何者かを自分に語って聞かせるストーリーである。また、生物学的にいうと自分とは現在位置の矢印であり、自分と世界の区別は脳の線引きによるものだ。
ブレッソンの哲学から抜粋
「私にとって写真とは、ある出来事が起こった瞬間に、その意義だけでなく完璧な構図をも、同時に認識することなのです。それによりその出来事にふさわしい表現を与えることができるのです」

6,リボン色=この私と差別

この瞬間がつくるこの私の姿は、他者の差異によって規定され、その他者によって確認される。このときの差異が差別につながると作者はいう。リボンの色である白黄黒は人の肌の色を示している。これらの色がつくる視覚的な差異は、この瞬間のこの私を規定していることのメッセージであり、それが必然的であるとまでステイトメントで言及している。

7,結局、この私の探求とは?

これまで解釈してきたワークインプログレスの装置が、写真行為を代理していることを明らかにしてきた。そして”この装置”が個の正体を明らかにするきかっけとなる可能性があることを示すことができている。
最後に考えるのは、社会が集団であるという解釈が個体差にあたえる影響だが、そもそも個と社会は直接的につながることができない。展覧会が開催されているのは、”公共”施設である。

公共は個でも社会でもないが、個にも社会にも関係することである。
この瞬間に現れるこの私の姿をみれたり、個のなにかに他者の関わりをもつことができる空間かもしれない。集団として束ねるときにそのバラツキに個体差をいう概念を持ち込む。このときみえる風景のほとんどは隣り合う個体の差分でありその集団の中心とのズレを突き付けられる。
それは”この私”の定義と同じで、”この集団”が社会に対して定義を確認する作業が必要で永久に終わらない中心を探す作業に突入していくかもれいない。

公衆が共有すること。社会全体がそれにかかわること
この意味での公共,すなわち公的領域は,私的領域に対立して人間生活の一半を構成する。


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