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翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑮


32.御国におはせし時ハ -鷹山公と野遊

原文

○御国におはせし時ハ、折々鷹野或鳥打なと御野遊の事もあれと、江戸にてハ御慰の事なく、只御座の間に和漢の文を友とし玉ふのみなり、公さへ斯る御事なれハ、つかへ奉るものゝ所々遊覧に気をはらし、心をなくさむるをハ、心なき事にこそおほすへきか
 人情の常なるに、梅もひらきぬらん、梅屋鋪こそかほらん、桜ハさきぬ、上野飛鳥山も群集すへし、桃は桃園、牡丹ハ西か原、藤には大森亀井戸、菊ハすかも、紅葉ハ海晏寺、海にハ小舟に棹させるはせ釣の風流、登楼の宴に月の出のなかめもめつらかならん、彼ハ近頃出てきこえしたれ〱 ハ、久しく外出の届もきかす、時に後れていたつらならんハ惜き事なれ、
 けふの天気にハたのしからん、あすこそ花ハ盛ならん、いさつれたち出よと、春夏秋冬其折ふしの遊にハ当るとのゐをもくりかへ、暇玉はりて心広きたのしみなり、
 只夫のミか、けふ到来の此提重ハあすの酒迎に遣すなと、おもひもよらぬたまものもありしなり、かゝる事にてありしほとに、おの〱 公の御つれ〱 をいたみ参らせ、爰の花かしこの月と度々御野遊の事をすゝめ参らするに、何れもか帰りて物語こそ見るにまさりておほゆるとの御事にて、御野遊の御沙汰もなし、されハ年寄衆気の毒におもひ、人情に貴賎のかはりあるへからす、御気つまりもいたはし、且ハ御養生の為なれハとて、予をして挙てひたすらに御野遊の事を願ひ奉りしに、
 年寄共の申聞こそ忝おもふなり、いか様出るにてあるへし、能申せとのミの給はせて何時何方へとの御沙汰もなけれハ、いかさまとのミにて出玉はすハ、年寄共の願もいたつらなるへし、
 ありのまゝの思召をうかゝはまほしと重て伺まひらするに、是ハそちへの物語なり、二本道具立ての歴遊をたのしきものとおもふか、去らハ微行とおもへハ何そ事あり時申訳もなし、然らは市朝ハ常の行列、野外に至て供を前後へちらして近習はかりを召連んに、先立のものをハゆるすまし、長刀なしにもやるまし、扨花を見、月をなかめてたのしからぬにハなけれとも、下戸の浅ましきハ酒興に余計の楽もなし、弁当くふて其後ハ只何れもか酒盛をみるのミ、屋鋪へ遥ならんはや〱帰りの供触とおもへハ、
 例の御頭予 か御小姓頭御役なるゆ へ、御近習各御頭〱 といふより、予をさして御頭とめし玉ふなり、な とか盃かゝへての佳境、中〱 供触の沙汰にも及かたく、たまさか近習の酒も闌に供触の事いひ出ても、また末々のもの賄かすます、さけかまた行わたらぬなんとゝいへハ、事もなく只柱により煙草のむまて、実をいへハ此退屈も少しハあり、扨歩行のあるきを養生とハ申せとも、往還二里三里の歩行下々の上にハ養生にもなるへし、あるきなれぬ希の歩行其つかれのあらんのみ、されハ月に五七度つゝも出たらハ、其気力もおのつから相応して養生にもなるへし、
 されハとて荒すさんて度々の野遊ならハ、供廻の太儀、且ハ遊に流るゝの名も汚さん、
 木太刀を取、馬に乗なんと其相応に身をつかへハ、させる気遣もあるへからす、然れとも何れもか夫ほとに申を、一円に承引せぬといふもいかゝし、左あらハ一の願あり、是迄とても度〱乗てたのしめとも、小馬場ハ短し、表の馬場にて乗事ゆへ供迴も其定あり、厩方にも夫々の役人詰、或詰人又ハ警固なんと人多く出るものゆへ、すける馬なれハとて度々ものられす、言出んとして止る事も多くあり、馬場の東へ常ハ開置、のらん時引廻し立ふさく様なる板屏をほし〱 、元より三方ハ人の見入るゝ事もなし、板屏を引廻さハやはり内庭も同然、乗んとおもふ時好の馬一二疋も牽入させ、庭口より近習のものはかりつれ出てのるならハ、人々の太義をもはふき、朝にても晩にても乗んとおもふ時乗らるへく、是にまさる楽もあるましく、是にまさりて身をつかふ術もあるへからすとのたまハせぬ、
 此よし具に達せしかハ、年寄衆大によろこひ即時に作事奉行へ達せしに、不日に出かし申さんと請て退ぬ、扨其日にてありしや、翌日にてや有けん、予を召ての御意につら〱考るに、板屏の好ハあやまりしそかし、扨入料ハ何ほとゝ聞しと問はせ玉ひしかハ、耳にふれしを隠し奉るへきにもあらす、板屏ハ纔三四両とても、此序に馬場へ砂敷わたしてまひらせんなと聞えしと答まひらすれハ、扨こそ弥あやまりしなり、百金の費を中人十家の産として止たまひたる、文帝のむかしハいかゝおもふ、況年来家中の半知取上置しけふの上に、三四両の金とても慰事には費すましき事にてハ有ましきやとのたまはせたるの有かたけれハ、
 其由申して板屏の作事ハやみになりぬ

現代語訳

 治憲公が御国(藩領地)にいらっしゃる時は、時折鷹狩や鳥打ちなどの野遊びを楽しまれることもありましたが、江戸にいる時は特に慰み事もなく、ただ御座の間で和漢の文を友としてお過ごしになるばかりでした。治憲公がそのような生活を送られると、仕えている者たちも遊覧に出かけることがなく、気を晴らせず、気分が沈んでしまうのも仕方ないことでした。
 「梅の花もそろそろ咲く頃だろうし、梅屋敷も芳しい香りが漂っているだろう。桜が咲けば上野や飛鳥山も賑わうだろうし、桃の花は桃園、牡丹なら西ヶ原、藤の花は大森や亀井戸、菊なら須賀、紅葉なら海晏寺が良い。海では小舟を漕いで釣りを楽しむのも風流だし、高楼から月を眺めながらの宴も一興だ」と、人々は治憲公が遊びに出かけられないことを惜しみ、何度も春夏秋冬の遊びをご提案しました。
 しかし、治憲公は「どの遊びも帰ってきた後に話す内容の方が実際に見るよりも面白いように思える」とおっしゃり、野遊びの提案を断られました。年寄たちは、治憲公が遊びを断られるのを気の毒に思い、人間の気持ちは貴賎を問わず同じであり、気が詰まってしまうのはつらいことですし、治憲公の健康のためにも遊びに出られるのが良いと考え、私に強く野遊びを勧めるよう言いつけました。
私が治憲公に再度遊びを勧めると、「これについては、そなたとの話に過ぎない。二本道具を持って遊び歩くのは楽しいものだと思うかもしれないが、微行(目立たない外出)と考えれば、何か問題が起こった時に言い訳もできない。それならば、通常の行列で出かけ、野外に出た時は近習だけを連れ、先導者を緩めて警備を軽くし、長刀なども持たず、気軽に花を見たり月を眺めたりするのが楽しいだろう。しかし、私は下戸(酒を飲めない人)なので、酒の興(楽しみ)がないため、宴会はあまり楽しめない。食事をした後は、周りの人たちが酒盛りをしているのを見るだけで、遥か遠くの屋敷まで帰ることを考えると、早く帰りたいと思ってしまう」とおっしゃいました。
また、歩くことについても「歩行は健康に良いと言われるが、下々の者には良いかもしれないが、歩き慣れていない者には疲れだけが残る」とおっしゃり、歩行が苦手な様子も伺えました。
 そのため、治憲公は「月に五、七回ほど出かければ、徐々に体力もついて健康にも良いだろう。しかし、野遊びばかりに出かけては、供の者に負担がかかりすぎるし、遊びに夢中になってしまうと、名誉を損ねる恐れもある」と慎重な姿勢を示されました。
 最終的に、「表の馬場での馬乗りは定められた行事なので、気軽に馬に乗れないのが残念だ。馬場の東側に板屏風(いたびょうぶ)を設置して、周囲から見えないようにすれば、まるで内庭のように馬に乗れる。乗りたい時に好みの馬を一、二頭用意させ、近習だけを連れて馬に乗れば、他の者たちに負担をかけることもなく、朝でも夜でも乗れるだろう。これほど楽しいことはないし、これ以上に身体を動かす術もない」と提案されました。
 私はその提案を年寄たちに伝えたところ、年寄たちは大いに喜び、すぐに作事奉行に伝え、準備を進めることになりました。しかし、その翌日、治憲公は私を呼び出し、「板屏風の件は、あまり良い考えではなかったかもしれない。費用をどれくらいかかるのか尋ねてみたが、耳にした金額は三、四両程度だった。だが、この機会に馬場に砂を敷いて整備するならば、百両以上の費用がかかるだろう。文帝(中国の賢明な王)の時代を思い出してみなさい。今は家臣たちも半知(収入の半分)を取られている状況で、たとえ三、四両の金額であっても、慰み事に費やすのは良くない」とおっしゃいました。
 このようにして、板屏風の設置は取りやめになりました。

33.人の病をいたましミおほしめし -鷹山公の病の家臣に対するお気遣い

原文

○人の病をいたましミおほしめし、御手当の下る事ハ挙てかそへかたし、其二三事を挙て其余ハ推て知へし、
 何年の頃にや、御手水番坂次郎右衛門勤仕断る程にハあらねとも、何とか色さめ気鬱して虚労の症にも成なんかと見へし程の事あり、是等の病の、旅出に気をなくさめて快気を得る事其ためし多くあり、此事をおほしめしけん、最上羽 州村山郡の高湯へ湯治せよとの御内意下り、願書出し、御列のことく三回二十一日の御暇にて湯治せしに、纔の日数なから果して旅中より気力すゝみ全快を得て帰りし、
 御家中の諸士私の旅出叶はぬ事なから、最上の高湯三回の御暇ハむかしより其例も多々あれハ、人々高湯湯治の申立にて、高湯にハ纔一二夜も逗留し、余の日数もて出羽の熱海象潟、奥州仙台の松嶋なんと見物する事なり、是元より上を欺き奉るふ届の事なから、むかしより御宥恕の思召も有けらし、帰湯の上松嶋絶景のふけりも人とかめす、おほやけにも御記なき程の事 になりきたれり、されハ所々歴遊せよとこそのたまはね、畢竟の処ハ夫かためのおほしめし成けるとそ、
 又安永四年の事なり、予兼て壮健の生なから頭痛に泥事他に越たり、此事有かたくも御憂おほしめし、山上白峯の高湯の頭痛にしるしあること人々の唱ふる処、又其験も多し、其方そちハ不如意、中々自力にてむつかしからん、手伝ふてやる、湯治せよとの御事にて、小判なと玉はりて湯治せし事あり、斯る有かたき湯治なれハ、昼となく夜となくひた入にあまたたひ浴して、湯瀧に頭をうたせしかとも、其後折々はけしき頭痛の発しハ殊にはけしき病ひなるかきくときかぬとの人にもよるか、又湯気に酒気を勝しめしゆへなるか、恐て恐へき事になん、然とも今年天明九年まて指を折て十五年なるに、三四年来ハ希に発る事ありなから曽て深き泥もなし、おもへハ湯治のしるしなるか、老にハ病の漸々に薄らくか、抑君徳に浴せししるしなるへし、
 又天明八年夏の事なり、御小姓夏井孝摩軽からす病んて床につけり、従来の貧家にして寝間といへとも土間なり、家に寝せす板しかす、ぬかわら敷て、其上に畳敷たるを、土間とも土座ともいふなり此 事きこしめし、大病人の土間にふす、必湿気の襲ひ浸さんかとの御いたはりにて、病中急に作事玉はり、寝間に板敷かせ下し給ひし、
 又去春予か頭瘟病にて、既黄泉の客とも成へかりしを、時しも御父重定公の御病中御看病に御暇なかりし内、医をつけ人参給ひ、朝夕の飯さへ公の御膳下給はりて、今斯筆執て此書かき終る、去 々年書はしめ、今又継て書ハなり本 復を得たりしハ有かたく、たふとしといはんか、身に取てハ只おそろしみおもふのミ、

現代語訳

 治憲公が病人をいたわり、その御手当が行き届いた事例は数えきれないほど多く、そのうちの二、三を挙げ、他は推して知るべしです。
 ある年のこと、御手水番(御手洗いを担当する役職)である坂次郎右衛門が、仕えるのを辞めるほどの症状ではありませんでしたが、顔色が悪く、気分が沈み、虚弱な状態になっているように見えました。こうした病は、旅に出て気分転換を図ることで快方に向かうことがよくあります。治憲公はこれをお察しになり、最上地方の村山郡にある「高湯」に湯治に行くようにとの内意を下されました。願書を提出し、例に従って21日間の湯治休暇を得た坂次郎右衛門は、短い期間で快方に向かい、旅の途中から体力が回復し、全快して戻りました。
 御家中の諸士(藩士)たちは、私的な旅行が許される例が多く、特に最上の高湯に湯治に行く者が多く見られました。多くの者は高湯に1、2泊しかせず、残りの日数で出羽(現在の山形県)の熱海、象潟、奥州仙台の松島などを見物していました。これは、上を欺くような届出ではなく、昔から許されていたことです。松島の絶景に心を奪われて帰る者も多く、その様子を大っぴらに記録することもありませんでした。したがって、治憲公が「所々を歴遊せよ」とおっしゃったのは、こうした楽しみを察してのことだったのでしょう。
 また、安永四年(1775年)のことです。私(筆者)はもともと健康が優れていなかったものの、頭痛に悩まされることが多く、その状況を治憲公にご心配いただきました。山上白峯の高湯が頭痛に効くという評判が高く、治験も多いと聞いていましたが、治憲公は「そちは不調で自力では難しかろう、手助けしてやるから湯治に行け」とおっしゃり、小判を授けられて湯治に行くことができました。昼夜を問わずひたすら湯に浸かり、湯滝で頭に湯を打たせました。その結果、以後頭痛が発することは少なくなり、重大な発作に至ることはありませんでした。おそらく、この湯治の効能であろうし、老年になれば病が徐々に軽くなるものか、あるいは治憲公のご加護があったのでしょう。
 また、天明八年(1788年)の夏のこと、小姓である夏井孝摩が軽い病気では済まず、床に伏せる状態となりました。彼の家は貧しいため、寝室といっても土間であり、板の上に藁を敷き、その上に畳を置いただけの状態でした。この話を治憲公が聞き、「病人が土間に寝ているのでは、湿気が病を悪化させるだろう」とのご配慮で、急ぎ作事を命じられ、寝室に板を敷かせてくださいました。
 また、昨年の春、私が頭の瘟病(流行病)にかかり、すでに黄泉の国(死者の国)へ行くかもしれないと思われるほど重篤な状態に陥った時、治憲公の御父・重定公もご病気で、治憲公は看病に忙しく、お暇がない中、医者を付けて人参を下さり、朝夕の食事さえも御膳からいただきました。そのおかげで、私はこのように筆を執り、この文章を書き終えるまでに本復(回復)することができました。この回復は奇跡のようなものであり、感謝の念に堪えません。


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