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翹楚篇 チャットGPT現代語訳④


⑦公立て家督したまひし時-鷹山公が家督を継いだ時の米沢藩の状況について

原文

○ 公立て家督したまひし時の事なり、
 御蔵元の逼迫せしハ実も尤のことなり、其むかし越州を領したまひしころハ其御高も知られぬほとなりしを、百二十万石にて会津に移らせ玉ひ、又三十万石に減して米沢に移たまひ、夫か上に半を減して十五万石を知しめしたれハ、
 君ハ元より大国の君、臣ハおの〱 大家の末なれハ君臣ともにむかしをしたふ人情より、其礼其格も分に越たり、尤俸禄こそ其時々に減たれ、大小の諸士凡五千家に近く、其俸禄を通計せハ十一二万石にも至ぬへし、
 只夫のミか治平の久しきに其格其式のみ次第〱 に大きく成来りしまに、数十百万の蓄を添てつかひ来りしより、其年の貢もて其年の用に足るへくもあらす、出入豪家のものに御手を下られ利金息銭を費して過し来りたまひしより、御国政も御心にまかせられぬことにハなりぬ、尚も漸々の衰あらハ遖百姓の難儀、御家の危急にも至らせ玉ふへきを、
 此こと明に知しめせしより、御家督のはしめなから御膳ハ一汁一菜を供さしめ、御服ハ木綿めさせられ、是を目当の倹約をと仰出されしなり、
 凡の人情始あらさる事なく能終あることすくなきならひなるに、御在位十九年今既隠居まし〱 てさへ其倹を守らせ玉ひて、御膳ハ一菜に限り、御服ハ御下めしまてに木綿をめさせられしなり、

現代語訳

 治憲公が家督を継がれた時、御蔵元(財政)は非常に逼迫していました。それももっともなことで、かつて越後(越州)を領有されていた頃の高い石高(こくだか)があったものの、会津に移られて120万石、その後、米沢に移られ30万石に減少し、さらにその半分の15万石にまで減りました。
 治憲公はもともと大国の君主であり、家臣たちも代々大身の武士の末裔であったため、君臣共に昔の栄光を懐かしむ気持ちから、礼儀や格式がその身分を超えるものになってしまいました。俸禄(ほうろく、給与)は時代とともに減少していきましたが、大小の武士たちは合わせて約5000家もあり、その俸禄をすべて計算すると、11万石から12万石にも達するものでした。
 さらに、長く平和な時代が続くにつれて、格式や儀式はますます大きくなり、数十万の蓄えを消費していました。年々の税収だけでは必要な経費を賄うことができず、豪商から借金をして利息を払う生活が続き、国政も思うように進まなくなっていました。このままでは、国の衰退が進み、百姓たちが苦しみ、さらには家の存続自体が危ぶまれる状況でした。
 これを明確にご理解された治憲公は、家督を継がれるとすぐに、まず自身の食事を一汁一菜に制限し、衣服も木綿の質素なものを着用されました。そして、この倹約を模範とするようにと指示されました。
 人は、最初は決意を持って取り組むものの、最後までやり遂げることが少ないものです。しかし、治憲公は19年の在位中、そして隠居されてからも倹約を守り続け、食事は一菜のみ、衣服も質素な木綿のままで過ごされました。


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