史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち パート1

今日は、「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」という本を紹介したい。カジュアルな表現で難解な哲学の分野を説明してくれているので大変おススメの一冊である。

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東洋の哲学の中でも特にインド哲学は、現代の量子力学などにも通ずる本質的な考え方が内包されているので、今回はウパニシャッド哲学から仏教に至るインド哲学の流れを紹介したい。

ウパニシャッド哲学の最大の哲人と言われた

ヤージャニャヴァルキアは紀元前750 - 700年くらいに活動していたとされる。彼に言わせるとあらゆる人間の不幸は勘違いからきているという。その勘違いとは「私」=「自己」=「アートマン」への無知から生じているという。

「私」とは何か?「自己」とは何か?を突き詰めたのが東洋哲学と言っても過言ではないが、ヤージャニャヴァルキアは「私」とは「認識するもの」と考えた。

皆さんは「私」とは何か?と問われたときに何と答えるだろうか?すぐに出てきそうなのは、「私は会社員です」とか「私は男です」といった回答だが、こんなものは社会の中で後付けで与えられたもので本質でも何でもないということは分かるだろう。

では、この肉体だろうか?だが、この肉体は本当に私といえるだろうか。例えば、食べ物を消化することや心臓が血液を全身に送るのは「私」がやっているだろうか?否、胃や心臓がそれらを機械的自動的にやっているのであって「私」がやっているとはとても言えないだろう。

では、脳や思考は「私」と言えるだろうか?実はこれも「私」とは言えない。というのも脳が行っているのは外部からの刺激をニューロンが受け取り、それを隣のニューロンに伝えるということを延々と繰り返すことで機械的な情報処理を行っているにすぎないからだ。

少なくとも現代科学で解明されているのは、脳が行っているのはこの機械的な情報処理だけで、「夕陽が赤い」という時の赤の質感、痛みを感じたときの感覚等の意識現象を脳が生み出しているのかどうかといったことは全く解明されていない。

しかし、この意識現象を生み出しているもの(「魂」?「物理現象X」?)こそが「私」が存在する為の絶対必要な条件と言えないだろうか?肉体や脳は正常に機能して、日常生活を何の支障もなく送れて、「夕陽は赤い」とか「痛い」と脳の機械的情報処理によって言葉としては口に出来たとしても、その意識現象、感覚が全くない人生だとしたらどうだろうか。

そんな人生は、もう自分でなくて他人が生きたとしても同じ人生と言えないだろうか。そう考えるとこの意識現象こそが、「赤を見たり、痛みを感じたりする」ものこそが「私」ということが言えるのだ。 ヤージャニャヴァルキアは、正にこの事実を鑑みて「私」の存在の本質を身体でも思考でもなく「認識すること」そのものだと考えた。

少し話が長くなってきたので、続きは次回に投稿しようと思う。


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