コミュニケーションの訓練法
※ 2021/12/22 excite blog より転載
森づくりの講座をご依頼いただいた際、最近はメニューにコミュニケーションの訓練を取り入れるようにしています。森づくりの技術的な話よりも、技術普及とは直接関係はなさそうに見えるこのトレーニングの評判が良いのです。
それはなぜなのか。2021年最後の投稿は、このことについて自分の思うところを書いてみようと思います。
コロナ禍が継続する中、今年はオンラインで2回、現地講習で2回、近自然森づくりのお話をする機会に恵まれました。受講者の感想をお聞きすると、やはり複数の方が最も印象深かった内容としてコミュニケーションの訓練を挙げていました。
やり方はいろいろあるのですが、私は「反復言い換え訓練」「手段と目標と目的の分類訓練」「理想と現実から課題を見つける訓練」の3つをメインにしています。
訓練1:反復言い換え
依頼を受けた時に、違う言葉で反復して問い直す訓練です。例えば、
といった感じ。そうするとAさんは、
といった返しをすることができます。それに対してBさんはさらに返す…と続けていきます。ルールは2つ。1つめは、Aさんは「そんなわかりきったこと聞くなよ」とは絶対に言ってはならないこと。2つめは、Bさんは言い換えの言葉を思いつかなかったら、前後を入れ替えるだけでもよいこと。
前後を入れ替えるとは、上記の例文で言えば「わかりました、今日の夕方5時までに、あそこにあるモミジの木を、強めに剪定しておきます。」という返しでもOK。入れ替えるだけでもBさんにとっては頭のトレーニングになりますし、Aさんにとっては自分が言ったことを確認することもできます。
これは "そういうつもりじゃなかった" を排除していくことで、間違いや手直しを減らすために行うもの。チーム、組織、甲乙の関係、あらゆる環境や立場で共通して実践できる、汎用性の高い方法です。実際に職場で早速やってみたが、とても効果的だったという受講生の声もいただいています。
訓練2:手段と目標と目的の分類
あらゆるパーツを並べて、手段と目標と目的に分けていく訓練です。林業で例えると次のようになります。
これは手段と目的を履き違えないための「バックキャスティング」の訓練なのですが、同時にコミュニケーションのトレーニングにもなります。つまり、私は(私たちは)どうしたいのかを明示することで、コンセンサス(共通認識)を持とうというもの。
少ない人数の組織やチームならば全員でやるのもよいですが、大きな組織で役割分担がはっきりしている場合は、指示・管理する立場の人たちだけでやってみるのも効果的です。
訓練3:理想と現実から課題を見つける
理想とはあるべき姿、あるいは希望のこと。理想と現実は往々にして差(ギャップ)があります。この理想と現実の差のことを「課題」または「問題点」と言います。
どうすれば良いかわからないのは、課題がはっきりしないから。課題がはっきりしないのは理想か現実のどちらかが、あるいはどちらも把握できていないから。なので、理想と現実を言葉にしてみます。
こうすることで、課題は何なのか、その大きさはどうなのかが明らかになり、何をすればよいか(できるかどうかではなく)が見えてきます。これも訓練2と同様にバックキャスティングの訓練なのですが、現実に対してどうしたいのかを明確にすることで、コミュニケーションの発展にも繋がります。
なぜ今、コミュニケーションの訓練?
これらの訓練で何をしたいのか。共通しているのは「言語化」です。言語化とは、何をしたいのかを相手に伝わるように表現するということ。伝わらなければ言語化ができているとは言えません。コミュニケーションの訓練のニーズがあるというのは、どうやらこの言語化がキーワードのようです。
経団連が行っている アンケートでは、企業が社員採用時に求める資質は「コミュニケーション能力」が16年間連続で第1位だそうです(2018年までの集計)。つまり、多くの企業では少なくとも16年以上はこの問題が認識されているが解決していない、とも受け取れます。
コミュニケーション communication という言葉は、これといった和訳がありません。意思伝達や伝え方、とも表現できますが、コミュニケーションは日本語として普通に使われているのが実際です。すなわち、これまでの日本では無くても良かったが現代では必要になってきた概念である、ということになります。
コミュニケーションという言葉が無かった時代は、私たちはどうしていたのでしょうか? このことを考えるヒントが、アメリカの文化人類学者 エドワード.T.ホールが指摘した「ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化」と、歴史学者の阿部謹也氏が著した「世間とは何か」、そして鴻上尚史氏の「空気と世間」です。
日本語とスイスドイツ語は対極にある
コンテクスト context とは直訳すると「文脈」ですが、これをホール氏は「共通の言語、知識、価値観、体験、ロジック、嗜好性」と表現しました。日本的に表現すると「同じ釜の飯」と言えば解りやすいかもしれません。そして、コミュニケーションのコンテクストへの依存度が文化の方向性のものさしになる、というのが氏の指摘です。つまり、
となります。このコンテクスト環境のものさしを国に当てはめてみるとどうなるでしょうか。
ハイコンテクスト文化がアジア系の言語、ローコンテクスト文化がラテン語系の言語になるのは、容易に想像がつくかと思います。私が驚いたのは、日本語とスイスドイツ語が対極にあることで、自身がスイスの林業に学んでいることは、何か必然的なものがあったのかなと後付けですが感じているところです。
日本の「世間」は変容しつつある
では、ハイコンテクスト文化でのコミュニケーションは、どのような背景で成立していたのでしょうか。それを解き明かすために、阿部氏や鴻上氏が指摘した「世間」の定義を見てみましょう。
このところネガティブな意味合いで言われることの多い「同調圧力」というものを言語化するとこうなる、という感じもします。世間とは集団の文化であって、共通の時間認識を重視する…すなわちハイコンテクスト文化のことを指すのです。
阿部氏は、人間は放っておけば世間を作るようにできていると指摘しています。もともとは西洋にも世間がありましたが、6世紀から12世紀にかけて一般市民にもキリスト教が普及するに伴って、上記の世間の要素は消えて(潰されて)行きました。
そして神に対して individual 個人とその集まりである society 社会という概念が生まれます。基本的人権が尊重されなければならないのは、神のもとに人々は全て平等であるからで、みんなで決めたこと(法律や選挙結果)は神との契約であるから守らなければならないのです(民主主義)。
日本ではこれらの言葉は明治初期に訳語が生まれ定着しましたが、宗教的背景を見ずに上辺だけ輸入されたため、西洋的な意味での個人が確立せずに、社会と世間のダブルスタンダードが現代まで続いています。例えば、裁判で決着がつく前にマスコミなどによる社会的制裁が行われる、といった具合です。
これは私の解釈ですが、世間というのは集団生活を基本とする人間が生き延びていくために生まれた知恵だったのではないかと思います。今では迷信と言われる呪術的な儀式も、生まれた当時は最先端の科学だったはずです。世間の排他性は、医学が発展するまでは伝染病を防ぐために必要だったのかもしれません。
世間というのは、コミュニティを維持するためにできたもの。そして、その構成員にとっては「生活保障」だったのではないかと思うのです。世間に従っていれば生活が保障されるから、世間の理不尽や非合理性に我慢することができたのです。
ところが、現代になって文明(機械、車、家電、流通)が発達するとともに、コミュニティに依存せずとも生活ができるようになってきました。そうして地域の伝統行事の維持は年々困難になって行きます。
これは地方だけの問題ではありません。イマドキの若者は会社の忘年会に参加しなくなった、という話題がニュースになりますが、自分を最終的に守ってくれない世間(会社が終身雇用ではなくなった/いずれそうなるだろう)と共通の時間意識を保つ必要がなくなるのは、自明のことになります。
もう避けることができない、ローコンテクスト文化への対応
ローコンテクスト文化とハイコンテクスト文化、社会と世間は文化の違いなので、どちらが優れているかという議論にはなりません。鴻上氏は「日本人は神の代わりに世間を持っている」と表現しました。しかし、生き延びていくための道具と考えると、時代への当てはめ方のようなものは変化していくはずです。
日本の経済は停滞し始めて30年以上が経とうとしています。背景として最も大きいのは、国際経済の変遷に対応できなかったことでしょう。良いものを作って売っていればよかった時代は終わり、サービスを国際的に売り込まないと生き延びられない時代に入りました。サービスを売り込むというのは、その国の懐(文化)に深く入り込むということ。そういう時代に、ハイコンテクスト文化のコミュニケーションでうまくいくのか…。
もうひとつ指摘したいのが、ジェネレーションギャップの問題です。先程も少し触れましたが、若い世代になればなるほど、世間への認識が変わっていきます。これは言及したように世間が生活を保障してくれなくなったということもありますが、インターネットの普及で年長者ほど情報を持っているという前提が崩れたことも大きいと思います。つまり、長幼の序の崩壊です。
世間(あるいは「ムラ」とも言い換えられる)を飛び出してしまった人とは、従来の世間にいる人はハイコンテクスト文化のコミュニケーションでは意思疎通ができません。だから「最近の若い人とは話が通じない」のです。相手の気持ちになって親身に接しても、価値観が違うので、相手の気持ちに立っていると思っているものが、実は自分の価値観を押し付けているに過ぎないということもあります。
一方で、SNSの発達は若い世代にとって新たな空間を作り出す場としても機能しているようです。しかし、日本人のそれは、やはり社会ではなくて世間に見えます(例外はありますが)。従来の世間を飛び出しても、コミュニケーション文化の違いの問題で結局内向きに戻る。そんな看板の架替えを繰り返しているうちに、国としてジリ貧になりつつある、そんな気がしています。
コミュニケーション訓練の実効性を上げていくために
コミュニケーションの到達目標は、能弁になったり相手を言い負かすことではなくて、「あなたの言う事なら信頼するよ」と言ってもらえる関係になることで、様々なコミュニケーションのハウツー本でも指摘されていることですが、聞く力はそのために欠かせません。
コミュニケーションの訓練を講座で実践するようになって、気がついたことがひとつあります。それは訓練で言いたいことを言語化できるようになるだけではなくて、人の言うことも聞けるようになるということです。特に訓練1は相手の言うことを聞かなかればトレーニングが成り立たないので、強制的に習慣付くのかもしれません。
日本でローコンテクスト文化に対応したコミュニケーションの訓練(価値観や文化の違う相手との意思疎通)の効果を上げるためには、指導者がハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の違いを理解していなければ難しいと思います。
コミュニケーションの重要性は、私が言うまででもなく様々な方が指摘されていることです。「自分の頭で考えろ」もそうでしょう。しかし、たまたまできる人はそれでよいのですが、多くのできない人は訓練が必要です。私も以前は全くダメだったのですが、訓練を受けて少しはマシになったかな(まだまだですが)という経験を持っています。
スイスのフォレスター学校では、コミュニケーションの授業が2年間のうちに300時間とられていますが、彼らも初めからコミュニケーション力があるのではなく、やはり訓練により培うのです。森林管理は様々なステークホルダー(利害関係者)を相手にしなければならないので、フォレスターの仕事の半分は対人関係だと言います。
今回ご紹介した3つの訓練方法も、スイスの人たちから教えてもらったものを日本人向けにアレンジしています。そろそろ、あるべき論から実行に移していきたいものです。最初は気がついた人が実行していく。そういう動きがあちこちで勃興して、やがて大きなうねりになる。森づくりと同じなのかもしれません。
本年も当ブログをご覧いただきありがとうございました。皆様どうぞ良い年をお迎えください。
参考:
・スイス林業と日本の森林, 浜田久美子, 築地書館 2017
・「世間」とは何か, 阿部謹也, 講談社 1995
・「空気」と「世間」, 鴻上尚史, 講談社 2009
・日本翻訳センター
・外から見る日本、見られる日本人
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