新時代への移行期で淘汰されるもの~新時代の皮を被った旧時代のパラダイム~
こんにちは。今日もこの変化の時代における旧時代→新時代にどう移行していくのか?というnoteです。
上記の記事で変化の時代において、何が旧時代的なもので、何が新時代的なものなのか?というのをまとめました。
そこで旧時代の特徴は、階級(ヒエラルキー)、陰的もの(受動的・形のあるもの・内向きなもの)、固定的なものというのをはなしました。
実はすでにこうしたものは2010年頃から淘汰は始まっていたので、違和感ある方は少ないかと思っております。
例えば2012年の記事ですが、すでに階級的だったり受動的な終身雇用的な働き方は無理筋であることが雇用の安定性が高い(失業率が低く・言語の参入障壁がある)日本でも当然のようになってきました。
またプロジェクトを固定的なウォータフォールではなく、変化に適応できるアジャイル開発という流動的なスタイルでやる方が良いという話も2011年に初版が出ております。
形のないIT化推進としてPC普及率を見ると2011年には3/4の75%が所持するような形となっております。
なのでこうしたわかりやすい旧時代の残り箇所はもう淘汰というより、しがみついているようなところが最後の抵抗を見せるだけで、今後のメインテーマではないと考えております。
今後むしろ淘汰される(すでにされ始めている)のは、上記の淘汰で新時代で残ったように見える「新時代の皮を被った旧時代の考えを持つもの」です。前置き長くなりましたがそちらを見ていければと思います。
大きく3つあるため、そちらをそれぞれ見ていきます。
単なる自由ではなく、(依存のないほんとうの自由である)自律。
一律の軸ではなく、(本当の意味での)多様性。
ファクト・論理過剰で逆に非論理的ではなく、ニュートラルなロジカルさ。
単なる自由ではなく、(依存のないほんとうの自由である)自律。
■ほんとうの意味での自由
まずは単なる自由から自律という話です。
先程書いたようなすでに起きていてピークは終えたのではないか?(微分量が下がったという意味)と思える旧時代的なものがなくなった結果、いろいろな制限や強要みたいなものが無くなり、人は自由になりました。
しかし、本当の自由とは制限がないことでしょうか?freedomとlibertyで考えるといいかもしれません。
ただ制限がないだけの状態はfreedomであり、そうではなくlibertyが本質的な自由ではないか?とヘーゲルは言いました。人間は一人で生きていくことは不可能なため、<組織>のなかで自由を見出す必要があり、本当の意味での自由とは、他社への依存や世界との摩擦のもとでのみ存在するものであること。
こういった概念的な話は今日の主題ではないので、気になる方は下記の本とかを読んでみてください。
これを履き違えると、自律というのは文字通り自分が決めるものですが、そうではなく「〜のほうが新時代的だと言ってたから、〜にします」という、一見新時代風なものも実は依存した自由といえます。アクションを起こしてる時点で旧時代的から進歩してるように見えて、自分の意志で選んでないので本質のマインドセットは旧時代ということです。
つまり本質的な自由とは、個人の自由のみを主張することではなく、個人個人の自由がトレードオフとなるときに相互承認できる自由のあり方を模索できることです。変化の時代では本質に立ち返っていくことが重要になります。
■ハラスメントに見る一方的な自由の主張
そうした中見てみたときに、旧時代から時代が変わって尊重されてきたハラスメントも新時代の皮を被った旧時代的なものと言えそうです。
制限がなくなり、上司の言うことが絶対・会社の言うことが絶対ではない中、いろいろなことに「ハラスメント」という言葉をつけることで、自己防衛し自分の自由を守り、一方的に自由を主張する行為が生まれました。
もちろん、当初は旧時代的なものを淘汰するために有意義だったと思いますが、新時代ではそのままでは通用しません。
ここにあるようにハラスメント・ハラスメントと、ハラスメント自体がハラスメントと主張する文法も出てきており、結果として社会全体を窮屈にしているという考え方もあります。
またHSPみたいな言葉も出てきており、精神疾患ではないものの配慮をしなければいけないみたいなことも出てきております。
これらに全て共通することは、一方的に個人を弱者としてそれを価値転換する術として、ハラスメントやHSPなどを使い自分が優位に立とうとする(自分の自由のみを主張する)ということです。現代において一方的に弱者や強者は規定できません。フラット化した世界では権力者vs革命者のような単純な構図は作れないのです。
アメリカではスノーフレーク世代という言葉も生まれており、
制限がなくなった分、そこで培われた精神的な成熟や自己肯定感みたいなものが無くなり、過剰にハラスメントやHSPなどの言葉で傷つきたくない自分を守ろうとする世代が出てきております。
こちらの精神的な分析は主題ではないので、興味ある方はこちらの本を御覧ください。
■(これまでの)野党の凋落
さて旧時代的なものが無くなるとすると既得権益的な自民党が先に支持率などを落とすか?と思ったら、支持率を落としているのは立憲民主党や公明党・共産党といったところです。(維新の会・国民民主は伸びております)
これらの党の特徴はなにかというと、ブーメランや対案がない・批判だけなどと言われてますが、反自民党というアイデンティティしか持たないところではないでしょうか?
今野党の役割はこうした批判ではなく、対案や解決が重要ではないか?と話が出ております。(支持率でいくとそこまで大きくない国民民主の代表選は支持率以上の盛り上がりを見せました)
■依存的な自由から、新時代における自律
ここまでの事例で見るとわかることは、旧時代的な一方的な自由の主張には依存があるということです。野党で言えば、自民党という大きな政党の批判をすることにアイデンティティを見出していますが、実際自民党という存在がなければ彼らは何のアイデンティティもありません。そういう意味での依存があります。
またハラスメントにせよ、強者や弱者を勝手に決めつけ自分の都合良く生きるためだけに一方的な自由をします。こちらも根底にあるのは強者への依存です。こうした依存は最初に話したほんとうの意味での自由である自律には程遠いことがわかると思います。
新時代はフラット化するので、一方的な権威側vs反体制側、強者vs弱者を規定できないです。一見新時代風に見える反骨精神側は反骨するものがあってようやく成立する概念なので、実は新時代に見えて旧時代のパラダイムということがわかります。
新時代はなにかから自由になる時代ではなく、自分の理想を見つけ自律した者同士がそれぞれの自由を尊重し折り合いをつけながら繋がる時代です。そのために依存的な自分の殻を破り、自分の理想を追い求めて行く必要があります。
一律の軸ではなく、(本当の意味での)多様性。
2つ目は一律の軸ではなく、本質的な多様性が重要ということです。多様性というのはいろいろな軸があるイメージで、フラットな世界では必然的に多様であるため新時代的ですが、これを新時代の考え方=正義という一つの軸とだけ捉えて、自分たちが旧時代と思うものを淘汰したり、新時代的なもので成功したいという旧時代的なマインドセットが入っているケースがあります。
■多様性の統一は多様性なのか?
まず多様性の統一という言葉をご存知ですか?上記のように多様性は多種多様なことなのですが「統一」となると全く語彙矛盾のように聞こえてしまいます。共産党の考える「多様性」に反するものは排斥しても良いというのは、実に共産主義的な均一性・単一性的な考えに見えます。
多様性自体は新時代的なのに、それを1つの軸であるかのように旧時代的な考え方で利用するのが新時代の皮を被った旧時代のやり方です。
これと同じことがポリコレ疲れという言葉で起きております。
政治的な正しさなのに、ポリコレに反するものはキャンセルカルチャーで言葉狩りのようになって、表現の自由を侵害する行為に出るのはなぜでしょうか?
多様性やポリコレに反する(と当事者が考える)ものは、全て排除することが多様性やポリコレなのでしょうか?
■Youtuberの二極化
「好きなことで、生きていく」で話題になったYoutuberも、とてもフラットで陽的でそれ自体新時代のパラダイムですが、ここにも新時代の皮を被った旧時代的な考えが潜んでいます。
人気Youtuber事務所が赤字で買収になったというのは最近の驚かせたニュースでした。こちらに関してYoutuberは二極化しているという話があります。
Youtuberの中でも、これまでの有名人的な有名になりたい・成功したいというマインドセット(旧時代的)でそれの土壌をYoutubeに変えただけというケースと、本当に好きなことやマニアックなことを突き進めてニッチに活動するケースがあり、後者のケースだとまだまだYoutuberも活躍が進んでいるそうです。
両者の違いはどこにあるのでしょうか?
■新時代風の考え方を旧時代の中身のままで使わない
これまでで共通しているのは、どれも一見表面的に見ると新時代的ですが、新時代っぽいことを旧時代的なマインドセットでやっているだけで、中身は旧時代のままということです。
多様性という考え方は新時代だが、それを1つの絶対的な判断基準として扱う
ポリコレで新時代の考え的なものなのに、自分の気に入らない考えを(多様性は共存しないと分断なのに)排斥する
新時代風味なのに、実態は旧時代的な一般的に成功したい・有名になりたいというマインドセット
多様性とは色々な考えがあることです。良いも悪いも正しいも間違っているも、多様化していく社会ではありません。(もちろん犯罪行為は残りますが)悪がなければ正義もないのです。みんながそれぞれのゲームを楽しむだけで、他人のゲームにあれこれ言う必要はなく、自分のゲームを楽しむことが重要になります。
そうした世界では、違う考え方にあふれるので前提としてとても不快な社会なので、寛容さが必要です。「セーフよりアウト」くらいなら飲み込んで生きるということです。
興味のある方は下記の記事をご覧ください。
ファクト・論理過剰で逆に非論理的ではなく、ニュートラルなロジカルさ。
最後は過剰に論理的になるあまり非論理的になってしまうというリスクについてです。
もちろん新時代においては、情報や論理は重要です。ファクトを見定めるリテラシーは大事ですが、論理やファクトなどのロジカルシンキングはどのように使うべきでしょうか?
各事例を見ていきたいと思います。
■ひろゆき的なスタンス
最近は著名人の影響によってか論破などのマウント小学生が急増しているようです。
ここでの問題はロジカルシンキングはどう使うべきか?ということです。論理的思考は目的にとって有効である使い方が重要になります。
今回のケースではその場の快楽や感情的な面白さでロジカルシンキングを利用しても、上記記事にあるようにマウント・承認欲求の暴走で、結果孤立やいじめに繋がってしまうということがあるようです。
これは時間軸的に短期的な論理的整合性を乱用して、中長期的な論理・合理性が欠けている事例です。
■ゼロリスク信奉
徹底的にゼロリスクを求める姿勢も上記の弊害かと思います。
例えばワクチンにおいて反ワクと呼ばれるような動きや、直近ですと福島第一原発からの海洋放出でもゼロリスク信奉が出てきました。
科学では意思決定まで導くことはできませんが、リスク許容をしながら総合的に見ていく必要があり、濃度についても少しでも成分が入っていれば駄目という姿勢も本来の科学のスタンスからはかけ離れたものです。
■科学の限界
実は科学に限界があるというのをご存知ですか?
科学でわかりうる領域というのはカントが二律背反、ウィトゲンシュタインが言語の限界という観点で証明してますし、量子力学の分野では不確定性原理や記憶に新しい2022年のノーベル物理学賞の「ベル不等式の破れ」でも確率でしか表現できない領域があるということがわかってます。
ここまでの内容でわかるのは決して科学を軽視しろということではありません、論理と知識で積み重ねる科学的態度は重要ですが、真に科学的態度を取ろうとすれば、科学で全てが解明できるという科学主義に陥ることは非科学的な態度となるということです。
科学ではわからない、目に見えない領域というのはあり、科学で解明できる領域は科学を存分に活用しつつも、目に見えない領域のところは「絶対はない」という前提の中で上手く付き合うということは、ニュートラルでロジカルな態度だと思います。
■過剰な論理性は感情的だから
ここまででわかることは、過剰に論理的になろうとしてひろゆき的になったり、科学主義に陥ることは非論理的になるということでした。そしてそれは感情面の執着や固執故かと思います。
そうした態度は情報や論理が大事な新時代とはいえ、新時代の皮を被った旧時代的な発想です。新時代では目に見えないものも絶対はない前提でスピリチュアル的なものを信じ「ても良い」し、信じなく「ても良い」そうしたニュートラルなロジカルさで多様性が広がることかと思います。
※占星術やスピリチュアル界隈では今後スピリチュアルな時代になる、とまで言う方もいますがここではそうとは思いません。大前提は論理性が大事で、そこで考えていくと目に見えない世界を「否定することはできない」というだけで、完全肯定というわけではないからです。ただこれまでのように目に見えるものだけが偏重で過剰に確からしさを求める余りゼロリスクになるようなことではなく、1つの選択肢としてのスピリチュアルがある人もいるだろうという感じです。
さいごに新時代の弊害
ここまでで新時代の皮を被った旧時代的な発想を理解できましたでしょうか?こうした考え方が新時代の初期の10~20年ほどで淘汰が入ると考えております。
ここまで見てきたように、新時代の初期の10〜20年は、自由・多様性・論理みたいなものがより一歩本質的になるための、破壊と再生が起きるということが言えるかと思います。ほんとうの自由とは?ほんとうの多様性とは?ほんとうの論理的であることとは?を考えておくことが重要です。旧時代的なものはもちろんですが、こうした偽りの自由・多様性・論理性みたいなものが淘汰対象となりますので、該当する方はお気をつけください。
最後にこれまでのnoteにも記載しましたが、新時代=オールハッピーでは全くありません。新時代にも純粋な弊害はあるのでそちらも紹介できればと思います。(こちらは淘汰されるのではなく、うまく付き合っていくものになるので区別が必要です)
フレーバー系(中身よりも風味、な人):
様々な人が出てくる中で、自律的な個人というより新時代的なものを表面的に取り込みすぎて、それっぽさだけの人
師弟制度的なものが崩壊して、旧時代的な悪しき風習がなくなったものの表面的な人が増える
いずれにせよピンキリが増える時代なのでリテラシーが重要になる
昨今炎上していたこちらの類する事例です
セーフティネットの崩壊による格差社会:
自由というのは平等と両立しない。自由と格差は同時に起きる。
自由だからこそ努力する人としない人で差が生まれる。(みんなが一律に努力してたときは辛いこともあったが差も生まれにくかった)
好きなことがあって自然と努力できて活躍できる人と、自律できない人による格差(個人をブランド化できる人、コミュニティを持てる人とそうでない人)
精神がおかしいと思ってしまう無敵の人は今後も量産されそうです
情報過多により反実仮想を恐れて何もできなくなる:
様々な情報がますます溢れていき、もしAという選択をするとBができないという反実仮想で選択できなくなる
情報を見定めるリテラシーが重要になり、そのためには自己理解(セルフアウェアネス)で自身で取捨選択する力が必要
断捨離をしていかなければいけないため、自分は何者なのか?自分には何が大事なのか?の自分軸を持つ必要がある
選択肢は選ぶ力がないと多くても不幸になります
これらにあげた特徴は、新時代の皮を被った旧時代で淘汰されるわけでなく、今後もどんどん助長されていく新時代のトレードオフとなるものです。こちらも同様に見極めて、こうした弊害(リスク)以上の恩恵(リターン)を持ち帰ってほしいので、手前味噌ですが是非拙noteをご活用ください。(変化の時代の適応は難易度文句なしのAかと思います笑)
私も変化の時代乗り切るために言語化をして、更に言語化することで感覚を得ることもありアウトプットしております。
皆さんからの多様な意見はとても励みになるので是非いろいろご意見などもください。
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