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【短編小説】ふたりの空白


幼い頃から家の近所にあった喫茶店のマスターが最近亡くなった。

昔ながらの純喫茶。
“くろねこ”という屋号のとおり、店内に黒い看板猫がいる。

僕は仕事に行く前、毎朝のようにモーニングを食べに寄っていた。

ドアを開けた瞬間、焼きたてパンの香ばしいにおいで食欲が疼く。
寝ぼけた顔で挨拶をすると、白い髭を蓄えたマスターが「おはよう、昨日も夜更かししたんだろう?」と呆れたように笑う。

トースト、ゆで卵、サラダ、スープ、ヨーグルト。シンプルなメニューほど朝には嬉しい。
気まぐれで手作りジャムが出てくる時もあった。

世話焼きなお父さん。
僕にとって彼はそんな人だった。

看板猫のシャアも僕によく懐いている。
マスターがその子を拾った時にすごく威嚇されたから“シャア”という名前になったということだったが、赤い彗星のビジュアルがそれとなく重なってしまう。

ヨーグルトを食べ終わった頃に出てくるコーヒー。
ほっと一息つきながらそれを飲む時、シャアは僕の膝の上でくつろいでいる事があった。
「そんなに懐いているのは君ぐらいだよ」と言われた事があるが、なぜシャアが僕に気を許しているのかはよくわからない。

「今日も一日頑張って、いってらっしゃい」
彼は毎日笑顔で送り出してくれた。
恒例の行事が滞りなく済むと、気持ちよく会社に向かう事ができたのだ。


この店が僕は大好きだった。

マスターの訃報を聞いた時、もう彼に会えないのだという寂しさに胸が締め付けられた。
人の死を知らされて涙を流したのは、両親が逝った時以来だ。

彼の葬儀には“喫茶くろねこ”にゆかりのある人が押し寄せた。
マスターはこれほど地域の人に愛されていたのだと、参列者の涙で僕は改めて知る。

喪主を務めていたのは彼の娘だった。

はじめてみる顔だ、地元を離れているのだろうか。
年はおそらく僕よりも少し上で30代中盤くらいだろう。
かっちりしたスーツ姿が似合う女性だと思った。

きりっとした顔立ちで、どことなく張り詰めた空気を持っている。
柔らかい笑顔が似合うマスターとはかなり雰囲気が違うなと思った。

あの後、シャアは彼女が引き取ったのだろうか…。
朝の憩いが無くなってしまった僕の生活は、少しくすんだ色をしていた。


それからしばらくの時間が過ぎた頃。
職場から帰る時に“喫茶くろねこ”の前を通ると、マスターの娘が何やら作業をしているようだった。

玄関の周りを掃除していたのだろうか、ほうきを持って額の汗を拭っていた。
今日は蒸すように暑いから、夕方であっても屋外での作業は憂鬱だろう。

「こんばんは」と声をかけた。
こちらに気づいた彼女は僕のことがわからなかったようだが、店の常連だろうと察してくれたらしく「どうも、今日は暑いですね」と困ったように笑いながら返事をしてくれた。

「実は明日から、お店を開けようと思ってるんです」

彼女は少し照れくさそうにしていた。
僕は嬉しさのままに「まってました!」と返す。

「娘さんがお店に立たれるんですか?」
「はい、父の残した店ですから。上手にできるかって、不安ばかりですけど」

前の仕事はデスクワークで、飲食店で働いた経験はないのだという。
ノウハウのない自分にこなせる自信はないが、父が長年愛した店を売り払うのも嫌だった。
だから一念発起して会社を辞めてきたらしい。

「全力で応援させてもらいます!だってまた明日からここに来れるなんて、夢のようですよ!」

僕の情熱が伝わったのか、彼女は微笑んでくれた。
その笑顔は少しだけマスターに似ていた。

ちりんちりんと小さな鈴の音。
シャアがドアの隙間からこちらを見ていた。

「シャア、また一緒にくつろげるな」

この感動を看板猫にも聞いてもらいたかった。
にゃあ、と小さく鳴いた黒猫が僕の足に絡みつくように体を寄せてきた。

「まあ、仲が良いんですね。この子わたしには懐いてくれないんです」
「人見知りな子だってマスターも言ってましたね、僕にはそんな風に見えないですけど」

しゃがんでシャアを撫でてやると、ごろごろと気持ち良さそうに喉を鳴らした。
そんな様子を見ていた彼女が、遠くの街並みに視線をやって、切ない顔をする。

「私、昔は父のこと嫌いだったんです。理由はよく覚えてないんですが、思春期とかそういう感じかな…。高校を出たら一人暮らしをするんだって、適当な大学に進学して、就職しました。
3年前に母が死んで、その時こっちに帰ってくる選択もあったのですが、つまらない意地を張ってしまって…。
父はずっと元気でしたから、こんなに急な別れになるとは思ってもいませんでした。
死に目にも会えず、親不孝な娘です。
シャアはそんな私のことが嫌いなんだと思います」

天涯孤独になってしまった彼女。

僕は自分の両親が死んだ時のことを思い出した。
ドライブ中の事故。病院から電話がかかってきて、仕事を放り出した僕は2人の元に走ったが、到着した時にはすでに息を引き取っていた。


僕の頬に一筋の涙が伝う。
見ると彼女も泣いていた。

蒸し暑い夜なのに、冷たい雨が降る日のように体温が下がっているのを感じた。

「僕でよかったら、いつでも力になりますよ」

涙交じりの声に力強さなんてなかっただろう。
我ながら情けない姿だ。


長い立ち話になってしまったが、僕は最後に「また明日寄らせてもらいます」と言って家路に着いた。

その言葉でようやく実感することができた。
喫茶くろねこが帰ってくるんだと。


朝のモーニングタイム。それは再び僕の生活を潤した。

マスターとは少し味付けの違う彼女のスープ。暖かいコーンポタージュは優しい甘さだった。

はじめの頃こそ気合を入れてピシッとしていたのに、慣れというのは恐ろしい。いつのまにか僕は昔のように、寝癖を残したままで店に顔を出すようになっていた。

そんな僕を見て困ったように笑う彼女。
あたたかいコーヒー、膝の上のシャア。

「いってらっしゃい、頑張ってね」

曲がったネクタイを直してくれた彼女に僕が惚れたのは言うまでもない。
彼女と僕はお互いの空白を埋め、新しい一歩を踏み出した。


End. 2018.05.13

3つのお題をテーマに執筆《黒猫》《珈琲》《彼女と僕》

物好きの投げ銭で甘いものを食べたい。