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子規に学ぶ「季重なり」(その2)

【はじめに】
この記事では、2021年6月10日に、夏井いつきYouTubeチャンネルにアップされた「俳人列伝 ~6月の正岡子規~」から、『季重なり』の句を紹介していきます。

夏井いつき組長の著書『子規365日』内で、6月に紹介されている子規の句から「季重なり」のものをピックアップ。子規記念博物館のデータベースを元に、「子規がどちらを主たる季語として作句したか」をクイズ形式にして見ていきたいと思います。

1.梅雨晴れやどころどころに蟻の道

この季重なりの句、主たる季語はどれでしょう? 俳句に詳しくない方は、ひょっとすると「梅雨晴れ」以外の季語が見つけにくいかも知れません。

現代においては「蟻」を夏の季語と見做すこととなっており、歳時記の殆どが夏の季語として収録しています。江戸時代からの表現で、「蟻の道」自体を傍題として収録している歳時記も多くあります。

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一方で、石寒太先生の『よくわかる俳句歳時記』をもとに補足をしますと、和歌には蟻は殆ど詠まれず、「蟻」が季語として定着したのは(意外と新しくて)大正以降なのだそうです。つまり明治時代に亡くなった正岡子規は、「蟻」を季語として捉えていなかった可能性があることを(動画内では触れられていない事実として)一言添えておきます。

子規が、「蟻」を季語として、季重なりとして作句していたかはさておき、子規記念博物館の分類によれば、この句の主たる季語は『梅雨晴れ』です。

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梅雨で雨の降っている間は、あまり道に出てこなかった「蟻」たちも、私達と同じく、梅雨晴れだからか、ところどころに道を作って生きるための活動をしている。
『梅雨晴れ』を描くために、蟻の道の点在を配している印象の句です。

2.花一つ一つ虻もつ葵哉

この句で季語となりそうなのは3つ「花」と「虻(あぶ)」と「葵」です。通常、詩歌の世界で「花」といえば、桜の花のことを指すのですが、この句の場合、最後まで読めば「葵の花」の事を指しているのだなと分かります。

「虻」と「葵(の花)」のうち、どちらが主役だと皆さんは思いますか?

子規記念博物館によれば、これは「葵の花」を主たる季語として読んだ句だそうです。もちろん、動物の春の季語「虻」の方が目立つ様に思う方もいるとは思いますが、この句の場合、

『もつ』という動詞については、「葵が虻をもつ」という擬人化が主従関係になっていて、『虻を持っているかのように葵の花が咲いている』ことを、表現している作品となるのだそうです。

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ですので、主役の葵の花(源氏物語っぽくなりますが、そうではないww)が、虻を相手方(脇役)とする関係性の句なので、この句の主たる季語は「葵」となるとのことでした。みなさん如何でしたか?

この句については、切れ字の「哉(かな)」が付いているのが「葵」だという見方でも正解にはたどり着けますが、切れ字が付いているかどうかは解釈のヒントでしかなく、

夏井組長「一句の文脈を見て判断をするのが大事」(ケースバイケース)

となります。定跡は確かにあるが、ケースバイケースだと思う。

3.川セミノ来ル柳ヲ愛スカナ

子規さんが時々やるという「カタカナ」交じりの俳句。また、文法的に微妙な時がある子規さんは、普通、名詞につく「かな」を動詞につけています。(文法的な是非は昔から議論されている作品とのこと。)

季語らしき物は「川セミ」(夏の季語)と「柳」(春の季語)の2つです。そして、この句は「切れ字:カナ」が付いているのはどちらの季語でもなく「愛す」という動詞です。皆さんはどちらが主役の季語だと思いますか?

上五中七を、平仮名+現代語風に整理してみると、

『翡翠(カワセミ)が来た/来ている柳』ヲ愛スカナ

となります。こうしてみると、「柳」が並木のように沢山ある中で、『翡翠が来た柳』を指差して選び出している様な感覚が沸いてきます。

ケーキ売り場で「苺の乗ったケーキ」を選んだり、屋台のわたがし屋さんに「鬼滅の刃の袋」を頼んだりするのと同じ感覚です。

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そうして文法的に他の例で見てみると、選ぶ動機になってる「好きなもの」は、ケーキや袋というより「苺」や「鬼滅の刃」だと分かります。苺や鬼滅の刃があるから選んだという因果関係になりますね。

掲句も結論としては同じ様でして「『翡翠が来た柳』を愛する」において、柳よりも『翡翠』が主たる季語(主に感情が動いた部分)なのだという結論に達していました。

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4.枇杷の実に蟻のたかりや盆の上

再び「蟻」が登場しました。「枇杷(の実)」は夏の季語です。さて、どちらが主役の季語かを皆さんも考えてみてください。

思考実験として、夏井組長が提示した比較句を先にご紹介します。

比較句:枇杷の実に蟻のたかりの猛々し

こうなると、「蟻」の集(たか)る様子を猛々しという力強い表現で形容していることからも明らかな様に「蟻」を読んだ句ということになります。

一方で、原句をもう一度見返すと「枇杷の実に蟻のたかりや盆の上」です。実はこの「盆の上」という下五によって、微妙に力関係が変わってきてて、こちらの正解は「枇杷の実」なんだそうです。

実は私3~4.と2問連続不正解だったので、こんな記事を書く資格もないのかも知れませんがww 私なりの解釈の復習も兼ねて記事を書いてます。

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『噴水に人の集いや○○寺』といったら、恐らく「噴水」のことについて、『噴水に人の集いの賑やかし』といったら、人の集まっての賑やかさの比重が高まることは何となく分かります。そんな感じでしょうか、

原句『枇杷の実に蟻のたかりや盆の上』を映像として描いた時に、まずは、「枇杷の実」があって、そこから少し引いて「蟻のたかっている」箇所が、カットインしてくるかと思います。問題はその後です。

比較句『猛々し』だと、蟻に寄って行くのだと思いますが、原句『盆の上』の方だと、更に引きの映像になって、そんな蟻のたかっている様子も黒い点の様になるほどの遠景で「お盆の上に枇杷の実」が載っているのがメインの構図となろうかと思います。

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・枇杷の実 → 蟻のたかり → 盆の上【更に引いて】お盆全景を映す構図
  ↑↓
・枇杷の実 → 蟻のたかり → 猛々し【蟻にフォーカス】し直す構図

と映像の最後、蟻にフォーカスし直すか否かが変わって来るかと思います。カメラも少なかった明治時代において、こうした映像の「画角」みたいな物を意識して言葉を選んでいた子規は流石といえるでしょう。

【おわりに】

家藤正人さんが、子規の季重なりの句を紹介してきて、ふと、

家藤正人
「でもまあ良くもこんなに季重なりの句を堂々と作りますねぇ、子規も。」

と言うと、組長が、

夏井いつき
「成功してるのは、ご本人の中で、何を表現したいのか、どの季語を自分として表現したいのか、目的が決まってるからグラグラしない。」

と返しています。そして、初学者に対しては、

夏井いつき
「ちょっと慣れてきて、季重なり頑張って挑戦してみましたって人の句も、何かそこ(目的)が定まってないケースが多いですね。」

と語っています。

鍛錬のために「季重なり」の句にチャレンジすること自体は良いのでしょうが、本来、季重なりの句として成功しているものは、意図を強く持って「季重なり」でなければならない熱い思いが込められている様に感じます。

だからこそ「季重なり」は難しく、初心者が生半可な覚悟で望むと、痛い目を見るのだという風に感じました。皆さんもぜひ目的をもって「季重なり」の作句に挑戦してみてください!Rxでした、ではまたっ!


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