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「愛」、そして「違和感」を考える

休日の朝、時計を気にせず毎朝の習慣である紅茶を2杯飲みながら、雑誌『IWAKAN 違和感』をじっくり読む。
ひょんなきっかけでタイトルに惹かれ、購入した雑誌。愛をテーマにした号がとてもおもしろかった。

いろんな形の愛だったり、離婚した母親たちにインタビューしたものなど内容がどれも考えさせられるものばかりで、とても心地よかった。
私自身、これまで生きてきて違和感を感じることが多かったり、その違和感を大切にしてきたこともあって、この雑誌が問いかけることがしっくりきた。

特に愛について。

ロンドン留学時代に「Gaby baby」という同性愛カップルの家族を追ったドキュメンタリーを見た時から、「Love is Love(どんな形であっても愛は愛に変わりはない)」という思いを強くした。誰が誰を愛そうと、それが異性であっても同性であっても、性別を定義しない人であっても、愛には変わりがない。まわりや社会がとやかく言うことではない!と強く感じた。つまり、結婚をしていなくても、同性愛カップルであっても、血縁関係のない親子や家族の形など、いわゆる「一般的な」家族やカップルの形じゃなかったとしても、社会が「それは正式な家族/カップルではない」という権利はない、ということ。

私自身の場合は、結婚をしていてもしていなくても、私とRの間にある関係性は誰からもジャッジされたり、侵害されることのないものであると強く信じている。
でも、この社会で生きていると結婚をしていないと「まだ未熟者」という扱いだったり、コミットしあう関係でないと見られたり、もちろん法律上では家族とみなされないので優遇措置がなかったり、社会から「結婚」という形で2人の関係性を認められない限り差別が存在する(同性婚が実現していない日本では、この違和感は異性愛カップルにしか当てはまらないことだけど)。

ロンドン留学時代は自分のアイデンティティについてもとても悩んだ。そして国籍を超えた存在になりたい、と強く願った。私はたまたま日本で生まれて日本国籍を持っているだけで、自分で選んで日本人になったわけではない。性別も同じ。自分で選んで女に生まれてきたわけではない。

そんな思いがあったからこそ、生まれた時の性別と性自認が異なる人たちにも親近感というか、親和性を感じていた。私は性自認と生まれた時の性別に違和感がない、いわゆるマジョリティ側の人間だけど、でも、「性別は自分で選んだものじゃない」という強い思いがあるからこそ、性別を自分で選ぶ人々に生きる強さを感じる(もちろん葛藤があることは重々分かっているつもりですが…)。そして、性別に縛られる自分(女性としてあるべき姿や考え方などのジェンダーステレオタイプ)に気がついたり、固定的な性別を超えて自分らしくあることを大切にしたいと思ってる。

この思いはRelationshipにおいても同じで、社会的なステータスは私とRにとってはどうでもいいことで、誰からもとやかく言われる筋合いはないんだけど、結婚していないと共同ローンを組んで家を買うことができなかったり(買うつもりなはいけど)、賃貸契約でさえ「婚約中」と書かなければいけなかったり。結婚に重きが置かれ、結婚すればお祝いされるけど、結婚していないとお祝いがないことも違和感(結婚してなくたって私とRはこれからも一緒にいたいと思っているのに)。同僚からも結婚について聞かれたり。いちいち社会は私たちのステータスを尋ねてくることにとても違和感がある。

Anyway, この雑誌の離婚した母親たちのインタビューでとくに興味を惹かれたのは少なくない人が、「自分を大切にすること。愛すること」を重要な学びをして答えていたこと。それを読んだ時、「私、まさにそれだなー」と思った。

少し引け目はあるけど、私は自分の人生が一番大事だといつも思っている。環境を守る仕事をしているのも、最終的には「自分が安心して暮らしたいから」。「社会のため」とか「動物のため」とか、自己犠牲的な高尚な思いはない。結局は自分中心。でも、たまたまその方向が「自分がよりお金持ちになる」ことじゃなく、「多くの人にとってより良い社会へ」に向いているだけ。でも、それは自分がいろんなところでマイノリティだと感じることがあるからこそ、マイノリティにとってもよりよい社会にしたい、と思って行動しているだけ。

Rとの関係性でも、Rには申し訳ないけど、私は私のやりたいことを諦めたくない。なぜなら、最終的には自分を幸せにできるのは自分しかいないと思ってるから。
もちろん、Rとはずっと一緒にいたいし、Rといれることが私の幸せでもある。でも、Rがいないと幸せになれない、とは思っていない(難しいけど、極論の話をすると、という意味)。自分の幸せは自分が一番分かっていて、誰かに頼って幸せにしてもらうんじゃなくて、自分で自分を幸せにしないと、誰かを幸せにもできないと思ってる。

たまたま本当に幸運なことに、Rは私についてくることがRにとっての幸せにもなっているからこの関係がうまくいっているなあ、とつくづく思う。私が前の家での在宅勤務に嫌気がさして、限界が来た時にも私はRに「自分を自分で幸せにするには、この場所にはい続けられない」と言っていた。「Rが引っ越しを反対しても私は引っ越す。結局のところ、私を幸せにできるのは私しかいないから」なんて強気なことも…(あのときは本当に切羽詰まっていて鬱気味だったからしょうがない笑)。

実際は、Rと一緒に暮らさない、という選択肢はないのに、その場の勢いで言ってしまった。いまとなってはRと別れるか、引っ越しを諦めるかと言われたら、引っ越しを諦める、と思うかなーと思ったけど、やっぱり迷いがある。。

ここまで自分のやりたいことを実現することへの強いこだわり、というか、意志があるのはなんでだろう・・・。両親の離婚をみているからだろうか。お母さんが離婚について私たち娘に話してきたときにも「お母さんは幸せになるべきだ」って思って伝えた。結婚していることが不幸になるなら、そんな結婚生活なんて要らないよね。もちろん子どもにとっては悲しいし、可能な限り避けたいけど、不幸な親2人を見て育っても、誰も幸せにならないよね。

親の離婚で、結局「夫婦」って他人なんだなーってちょっと冷めた目で見てた。親と子の関係性って良くも悪くもとても強いけど(特に母と娘は)、夫と妻は法律上「家族」であっても、結局は家族(無条件で愛せる存在)になれないんだなーって(我が家の場合はね)。

結婚した途端、呼称を「夫」に変える周りの人たちにも違和感があったし、「結婚したら家族になる」って考え方にも違和感があった(決してそれを好きでしている人たちを否定する意図はないし、幸せならなんでもありだと思っているので誤解ないように。ただ私には違和感があった、という話です)。
むしろ、私はRelationshipにおいては親子のような無条件の愛がデフォルトでないからこそ、お互いの努力を惜しまずに愛を積み上げていくことが大事だな、と思ってる。だから呼称や指輪、結婚してるかしてないかは関係ない。それは表面上のことでしかないから。そして、そう思わせてくれたのはRと出会ったから。

愛って日本の文化的には説明が難しいコンセプトだし、いまだに「愛って何」って思いながらも、英語のLoveを使って過ごしてるけど、最近は、何か困難があった時に、それでもこの人と一緒にいたい!という強い思いが愛なのかな、と思うようになった。でも、そこには自己犠牲は伴わない。自分を犠牲にして成り立つ関係性は長続きしないんじゃないかな、と。

自己犠牲はないけど、2人にとってよい選択・決断を一緒に考えて、実現していくプロセスが愛がなのかね。だからすごく流動的なものな気がしてる。結婚したら家族にならないのと同じで、結婚したら「We are in love」なんじゃなく、お互いの継続的な努力があってこそ愛が作られていく…のか?!

少なくても、私とRの関係性においては、そんな感じで過ごしてきた。Rの幸せや夢、やりたいことを私が奪いたくないって強く思ってる。私のせいでRが諦めるような状況を作りたくないし、私もRのせいで何かを諦めることはしたくない。だから2人にとってよい未来を一緒に考えて、一緒に選んでいく。それができるのは、私たちは2人のそれぞれの意志で、これからも一緒にいたい、と強く思っているからなんだと思う。一緒にいることを選び続けている状態が愛とも言えるかもしれないね。

その強固な基盤がなかったり、どちらかがそれを諦めたら関係性が終わるのかなーと。で、基盤っていうのは結婚していることで養われたり、愛は子どもがいるから確固たるものになるわけでもないんだろう、と。

で、結局は焦って結婚とかしなくてよかったーっていう結論に至ったっていう。周りに合わせたり、社会的なプレッシャーに飲み込まれて人生を決めなくてよかったなーって。自分を大切にすることに十分時間をかけられたし、いまも時間をかけているし、自分のやりたいことを実現することをサポートしてくれるRがいるからこそ、今の自分があるし、いまのRとの関係性をつくってこれたんだな、と納得。だから結局は自己中心的になったほうが自分も自分と関わる他者も幸せになれるんじゃないだろうか?

久々にむくむくと湧いたこの感情を書き出せてよかった。すっきりー。そして、これからもRとの関係を大事にしていきたいな、と改めて思えた時間になりました(でも、もちろん絶対の愛はないから、うまくいかなくなったら、その時はその時。痛いし辛いけど仕方ない、とも思いながら過ごすことも大事!)。






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