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何者でもいい

新入社員の男の子の歓迎会。チームの誰かに仕事中聞きづらい質問していいよって言ったら、わたしにまっすぐ向き直って。「(ぴっぴ)さんのキャラが分からないんですけど、どういう風に接したらいいですか。」

…そんなにわたしキャラぶれてるかな?!
と、3週間経った今でも何かにつけ思う。
いや、世の中のサラリーマンサラリーウーマンたちがみんな自分のキャラを前面にだして働いているとは到底思えないが…!?(極端)
とにかく、心に突き刺さった問いであった。


「この人はこういう人だ。」
会社に入って、一度かけられたフィルターは何かとてつもなく衝撃の大きい出来事でもない限りそのままで、それをわざわざ誰かがかけ直すようなことは滅多に起こらない。

この人はこうやっていじって喜ばせる。
この人にはこういう話題を投げる。
いちいち考えなくていいから、コスパがいい。

こんな風に“キャラ”の意識が定着したのは、SNSでの情報の受発信が当たり前になってきたからのような気がする。(論文風)

SNSを複数使っていると、何かの拍子に自分のフォローに似たアカウントをおすすめされたり、フォロー相手がリツイートするアカウントをフォローしたりと、自分のタイムラインに表示される情報が形作られていく。

と同時に、
このアカウントはこういう自分を見せるべき、と意識して投稿する自分がいる。
ほら、よくアーティストのPVなんかで、回りながら仕切られた小部屋の世界観が順番にくるくる変わって、本人はそれに追いつこうと画面の端から中心に飛び込んでくる感じ。
たまに舞台から降りて休憩して、またその世界に飛び込む。繰り返し。

ただ、裏側には、現実世界で自分にコンプレックスがあって、そんな自分を変えたいという思いがある場合も多い。
例えば、わたしの場合、どうしても“自然体で料理を楽しむ女性”というものになりたくて、instagramに作った料理を週に2、3回投稿している。その影響で、周りからは「いいよね、料理できて」とすっかり料理ができる子認定を受けているが、実際のところ、BBQにて包丁のつま先で野菜を切っている姿を見た友人にぎょっとされるなど、とても料理ができるとは言えないレベルだ。
世の中はそんなアカウントで溢れている。


そんなこんなを繰り返すうち、わたしは社会人生活3年間で、一見相対する“キャラ”を自然に演じ分けるようになった。

“バリキャリ女子”としてチャキチャキ周りに指示を出すかと思えば、ある時期は「あ、気づきませんでした」という“抜けキャラ”で仕事をする。
会社やTwitterでは“アイドルオタク”色を強めながら、ある人たちには人生とはを語り資格勉強に励む“意識高い系”で接する。
または、“サバサバして近寄りがたい”オーラを出しつつ、数分後に無意識に“メンヘラ“感満載の文章を打つ。
はたまた、誰が見ても”友人が多く社交的“な自分の時もあれば、完全”引きこもり“生活をすることも多い。etc.

挙げていくうち、新人くんの言う通り、わたしだって自分のキャラ分かんないよ…!!とベランダから叫びたい気分になる。

わたしだって、その時の相手の反応や場の雰囲気や、あてにならない自身の気分や、今後の関係性の見通しや諸々を考慮して使い分けるのに必死で、たまにAとBを間違えて微妙な空気になったりもするくらい、苦慮している。疲労。

別にどう思われたっていいんだから、もっと気楽にやりなよ、という声がどこかから聞こえる。たしかに仰る通り。
しかしややこしいのが、どの自分も決して嘘偽りその場しのぎではなく、すべての自分が間違いなく自分であることである。

仮に、これらの相対するキャラの要素をひとつずつ取り除いていったとしたら、素の自分には何か残るのだろうか?
「…空っぽかもしれない。」手が震えた。自分が最も恐れていることだと気づいた。


悶々と、本当に自分は空っぽなのかを考えるうち、過去どんなキャラでいる時も共通する傾向をひとつ見つけた。
それは、『「絶対おかしい」と心の琴線に触れたことは、誰に何と思われようと何を言われようと、おかしいと言い続ける』ことであった。

例えば、最近でいうと、職場にて同じチームの同僚がお客様に失礼な内容のメールを誤送信した際、管理者一同の「他部署の提案進捗を鑑み、会社として気づかなかった振りをする」という対処方針に納得できず、「ビジネス上の理由なんか知らない、人として謝らないのはおかしい」と1時間弱主張し、管理者をほとほと困らせた。

一部、部外者としての勝手な言い分だとはわかっているのだ。ただそれを許してしまったら絶対におかしい気がして、言わなくてもいいんだよという天の声を遮って、言い続けてしまう。これまでの人生でも、小学校2年生での最初の出来事以降、そんなことが両手くらいあった。どんなキャラの時でも関係なく衝動的に起こるので、重たいレバーが振れたら最後、全理性をかけて引き戻さない限り、自分でも容易に止めることができないのだった。

こういったすべての自分に通ずる傾向が他にあるかは分からないが、今後、これらをまっすぐ軸に立て、自分は何者かをある程度まとめることはできないかなと考えている。

はあちゅうさん主宰のはあちゅうサロンのinstagramにこんな言葉があった。

1〜3年かければ何者かになれる。

1〜3年が経った時、ひとはどんなわたしを見ているのだろう。
何者でも良いのだけれど、仕事でもプライベートでもSNSでも、誰にどこで接しても、まっすぐに軸を通したひとつのわたしで、自然体で立っていたい。その時にはもう、キャラを質問されて心底戸惑うことはないはずだ。

#エッセイ #コラム #何者 #キャラ #自然体


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