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私の生い立ち1 黄色いウサギ(0歳〜4歳まで)

 小学6年生の頃、「生い立ちの記」を書くという宿題があり、私は1ページも書けなくて、先生にめちゃくちゃ怒られた。「自分の生い立ちを親に聞きながら書きましょう」というが、当時、私は親と喧嘩ばかりしていて、たとえ宿題だとしても、親とは口を聞きたくなかったこと。楽しい思い出もそれなりにあったはずなのに、いじめられていたことばかりを鮮明に思い出してしまい、書けなかったこと。小学校6年生の時の担任だった熱血男性教師に抱いてしまった不信感。40歳になった今では、親や担任に反抗していた自分が間違っていたな、と思うこともあるし、いや、どう考えてもあれは親や担任が間違っていただろう、という譲れない気持ちもある。そんな、今だったら、生い立ちの記を私も書けそうな気がする。というか、私も書いてみたい。インターネットという誰でも目にすることができるメディアに、書ける範囲で書いてみようと思う。

 1983年6月30日、私、黄色井モモ子(仮名)は、静岡県某所の川から、どんぶらこ、どんぶらこと大きな桃が流れてきて、それを家に持ち帰り、半分に割ったら私が生まれてきたらしい。

「あなたは桃から生まれてきたからモモ子という名前なのよ」

 と、両親はよく言った。桃太郎が正義の味方として生まれてきたように、何か私も運命的なものを背負って生まれてきたのかもしれない。そう思っていたが、幼稚園のとき、母と一緒に買い物をしていたら、母の知り合いと思われる女性に

「あら、モモちゃんこんなに大きくなって」

 と、話しかけられた。

「私、あなたのお母さんと同じ産婦人科だったのよ」

 そこで私は、私が桃から生まれたというのは嘘であるということを知った。ただ、桃から生まれたという方がかっこいいので、友達に名前の由来を聞かれた時には、「桃から生まれた」ということにしている。ちなみに一歳ちがいの弟は、金庫の中に入っていた赤ん坊だったので、キン太郎と名付けられた。

 4歳の頃まで、アパートに住んでいた。私は絵を描いたり、塗り絵をしたりして遊ぶのが好きな子どもだった。子どもが跨がれるサイズの大きなゾウのぬいぐるみがあり、それがとてもお気に入りだった。外で遊ぶのは、あまり好きではなかった。うちの母は、よくファミコンで遊んでいた。私が生まれた日の少し後に、そのゲーム機は発売され、話題になっているのをテレビで見て、欲しいと思い購入したらしい。ある日、夜中に目を覚ますとリビングの明かりがついているのに気がついた。見ると母がスーパーマリオブラザーズをやっていて、母の隣で正座しながらそれを見ていた。すいすいとステージをクリアしていくのがかっこよくて面白かった。

「あんたが見ていると集中できないから、早く寝なさいよ」

 と、言われて渋々、布団の中に入った。

 アパートの近所にあるA第三保育園に通っていた。つばめ組だった。紫陽花でいっぱいの公園に出かけたり、お友達と絵を描いたりして過ごしたのを覚えている。

 また、私は音楽教室の幼児コースに通っていた。その発表会でみんなが白いうさぎのお面をかぶっていたのに、どういうわけか私だけ黄色いウサギのお面を被っていて、他の子よりも目立っていた。

「あんたは変わり者だから、あんただけ黄色いウサギなのよ」

 そのように母が私に言ったのを覚えているが、どういう内容のお遊戯だったのか記憶にない。黄色いウサギは重要な役柄だったのかもしれないし、白いウサギのお面を黄色く塗りつぶしたのかもしれない。目を閉じれば、「そそらそらそら」とうさぎのダンスが聞こえてくるような気もするが、全く別のお遊戯だったのかもしれない。動画などはなく、写真が数枚残っているだけで真相がわからない。

 その後、父方の祖父母の家の近くに家が建ち、そこに引っ越した。A第三保育園から、B保育園に転園し、音楽教室の幼児コースも辞めた。お気に入りだったゾウのぬいぐるみは、私の知らないうちに捨てられていた。

(続く)

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