伝えることより伝わること


気持ちに合わせて必死に言葉を探しているときよりも、気持ちが自然と言葉に乗るときがある。これは最近の大きな発見で、言葉を探す努力を「伝えるため」ではなく「伝わるため」に置き換えた方が自分はうまく話せる。

伝えるため

伝わるため

並べてそのニュアンスの違いをじっくり見つめる。

「伝える」
手渡すイメージ
固体の印象
棒の印象
責任の所在がはっきりしている印象
行為自体にフォーカスされている
主体は自分
自分が伝えられればいい
完全なコミュニケーション

「伝わる」
染み込むイメージ
気体の印象
風の印象
責任が有耶無耶な印象
行為よりも内容の深度にフォーカスする
主体は相手
相手に伝わればいい
不完全なコミュニケーション

この二週間ほど、仕事や仕事外で人と話す機会がとても多かった。おそらく今週も多い。人と話すことや人に何かを伝えることにとても苦手意識を持っている自分がそんな環境でも死なず、何ならわりと楽しく生きていることにまず驚く。

そして、自分がそんな風に人と話していて嬉しいのは、「上手に話せたとき」ではないことに気が付いた。「伝わったとき」がなにより嬉しいのだ。きっと本音を上手に話せたことなんか一度もないのかもしれないけれど、それがたまたま何かの偶然で相手に伝わったとわかるとき、その表情でそれが感じられた瞬間、とても嬉しい。

つまり、まとまらない言葉であっても相手に伝わってしまえばモーマンタイ。それでいいのだ。逆に、どれほど上手に話せたとしても相手に伝わらなかったら意味がない。

これまでは「伝えること」ばかりに気が向いて自分の力不足を嘆いたり落ち込んだりしていたけれど、「伝わること」に意識を向けるとそれはもう自分だけの問題ではない。誠心誠意やって、伝わらなかったとしても仕方ない。だって違う人間だもん。全部自分の努力だけで伝えられると思うほど、僕は強くない。

伝える努力をする必要がない、という訳では全くない。努力をしてもしなくても変わらないのであれば、その努力はしていたい。もうこれは好みや生き方の問題なような気もするけど。

伝えられないことを怖がって自分の気持ちを言葉に乗せないで消えていくくらいなら、伝わらなくてもとりあえず気持ちは言葉の上に乗せておくだけの価値はきっとある。その時は無理でも、いつか別のタイミングで届くこともある。

「話すことよりも聞くこと」をさらにアップデートして言葉にするなら、「伝えることよりも伝わること」になる。

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