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運動会と「見えないことになっている」人たち

この記事は授業で行っている「自己研鑽」「自主学習」のサンプルとして使うことを目的にしている。もちろん,内容は一応私が考えたことである。


下の記事には運動会を嫌いな子の事情などが書かれている。

私もこの記事の筆者と同じで,運動ができたわけでもないし,どちらかと言えばどんくさい部類で徒競走で1番になった記憶が全くないが,運動会が嫌いなわけではなく,わりと好きな方だった。これはやはり体動かすこと自体はそんなに嫌いなわけではなかったとか,運動会という非日常感が楽しかったというのもあるだろう。

では記事にあるような「非日常感が嫌」とか「決め事が多いのが嫌」といった事情で運動会を嫌う子たちって昔はいなかったのだろうか。おそらくそんなことはなく,そういった子は「見えなかった子たち」だったのだろう。

昔(私の場合,40年ぐらい前だ。恐ろしい)は今よりも統一的に行動することが学校で重視されていた時代だから,そういう子たちの存在は見えていない,見えないことにしていたし,たとえ「嫌だ」といってもみんなが出るのには出るということが当たり前だという時代だから,出ていたのだろう。

一方で実は今運動会はどんどん縮小傾向にある。

近所の小学校でも以前は1日中開催だったのが午前開催になり,リレーや表現が玉入れのような集団競技がなくなった。

その結果,運動で活躍できる子の活躍できる場というのはどんどんなくなってきている。これは先ほどの例に沿うなら「運動で輝ける子の存在が見えなくなっている」とも言えるのではないだろうか。

いや待てよ。「運動でしか輝けない子」なんていうのは実際にはほとんどいなくて,「運動できる子」は他の場面でも活躍しているんじゃないか。例えば体育もそうだし,毎日の20分休みや昼休みの鬼ごっこだってそうだ。そうやって運動できる子の活躍の場は日常からあるのだから,運動会がなくなったところでそこまで困りはしないだろうと考えることもできるわけだ。

ではもっと極端に,運動会はなくしてよいのだろうか。この問いは「本当に学校で必要なことってなにか」と考え直すことにも繋がる。私が担当している授業では「教科教育以外にも学校が持っている機能や役割」についてレポートを書かせている。ここは授業じゃないので詳しいことは書かないが,学校には時間どおりに行動するとか,給食を通して栄養について考え実践するとか,そういう機能があるという話だ。

この文脈で考えたとき,運動会がなくなることで体育という教科教育以外の学校の機能として何がなくなるのか,運動会という1日だけでなく,そこに向けた準備も含めて何かあるはずだ。そういった視点で考えることもできるだろう。

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