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日本語学会(24春)おわりー
日本語学会の24年度春季大会に参加した。今回は80周年記念で特別シンポジウムもあったのでタイムテーブルが例外的でメインの起きことである司会は2日目だった。
いろんな発表を聞いたが、その中で思ったことをつらつらと書いておきたい。
神の視点と人の視点
現象の説明では人、つまり話者の持つ知識がなんであるのかを明確にするのは大切だというのは大学院のときにとても意識させられた。
特に入力から出力に至るまでのルールは基本的にそうなっている必要がある。
これと対極にあるのが神の視点だ。神の視点は話者の知り得ないことを入れた分析とでも言えばいいか。
例えば外来語はこれこれこうという説明は外来語であることが話者に自明であることが前提だけど、話者は文字無しで外来語と認識できるのかは問題になる。歴史変化でもよく出てくる語彙の類別そのものは意味のないまとまりだから、何がどの類かは話者の知識ではない。
これは意味も同じことだろう。どこまで要素(語彙?)を分けるか、はたまた分けないかは好み以上に人が何を知っているのかというその人の言語観が嫌でも強く反映される。
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ゴールと道筋をはっきりと
言語現象の説明というのは基本的には仮説があって、それを検証する形式が分かりやすい。もちろん探索的な研究もあるけど、何が目的で、どうやって確かめるのかをはっきりとあらかじめ書いた方がいい。
これは統計も同じで、例えばカイ二乗検定でもt検定でも何が(帰無)仮説かを明示するのは大切で、それがないと「おしゃれ」に書いただけに見えてしまう。
コーパスの整備が進んで分析の手法は変わってきたけど、ツールが進化してもベースとなるロジックが変わるわけではないことは忘れてはいけない。
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