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ぼくの履歴書 ~第二章 「暗黒時代」~

はじめまして、山下 大樹(やました だいき)と申します。

大阪の淀屋橋にある「株式会社アージスジャパン」という転職エージェントで働いる25歳の会社員です。

先週から、「ぼくの履歴書」と題した自己紹介noteを書き始めました。

今週はその第二章です。

(※よかったらこちらの第一章も読んでみてください↓↓)

https://note.com/ydk_303/n/n597563e4fb92

それでは第二章を始めていきたいと思います!

第二章 「暗黒時代」

まず中学入学時の僕のスペックを紹介する。

運動については第一章の通り「下の下」、

勉強に関しては「中の上」ぐらいのだった。

友達は特別多くはないが、普通にいた。

そして僕は、運動でも勉強でも挫折を経験する。

野球ではうまくいかなかったが、

同級生より始めるのが遅かったからだと考えていた。

そこで、スタートラインが同じ競技にしようと思い、

ソフトテニス部に入部した。

みんな横並びなので、これなら活躍できる…!

しかもめちゃくちゃ楽しい。

そんなテニスというスポーツに出会えて、

すごく嬉しかった。

野球の時と同じく、ストイックに練習した。

とにかく練習を休むことが嫌いで、

自由参加の朝練もフル参加。

祖母が亡くなったときも練習を休みたくなくて、

お葬式の前に練習に行き体操服で葬儀場に合流し、

参列者からサイコパス扱いをされた。

かなり頑張った。

楽しかった。

結果、3年間で公式戦ゼロ勝。

全然ダメだった。

原因は二つあった。

一つ、

練習は人一倍頑張ったが、

努力の方向性が悪かった。

基礎練が嫌いで、

テニスの王子様の登場人物が使うような

ミラクルショットの習得にばかり

時間を割いたのが原因だった。

結果、普通のラリーで全く勝てず、

一撃必殺を繰り出す機会が来ないまま負けていた。

二つ目は、

ペアとの相性の不一致だった。

後衛の僕と前衛の相方の間には、

大きな大きな差があった。

それは、「圧倒的な人間力の差」だった。

「スポーツができる=モテる」という

価値観のもと生きてきた僕は、

最弱ペアの自分には人権がないと思っていた。

でもその前衛くんは違っていて、

テニスで弱くても彼女もいるし、

とにかくモテてみんなの人気者。

彼は自分を表現するのがすごく上手で、

テニスで最弱だろうが、

ペアと相性が悪かろうが関係なく、

(僕以外の)みんなから好かれる存在だった。

しかも勉強もできていた。

そんなキラキラした存在の全てに嫉妬し、

劣等感の塊である僕が釣り合うわけがなかった。

ほとんど会話もしなかった。

もともと自分の思っていることを

口に出せない性格で、

素直に自分のことを話せないところがあった。

試合に負けても口を聞かず、

僕は感情をコントロールできず、

怒りに任せてテニスのラケットを

地面に叩きつけ折ってしまったことも何度もあった。

うちのテニス部では、

入部時に決められたペアで

引退まで戦うというルールだった。

しかし、僕のペアは例外的に解消させられた。

自暴自棄になっていた僕が原因だった。

中3の引退試合前には、

とうとうペアを外され、

同級生で僕1人だけがペア不在の状態に。

公式戦勝利への最後のチャンス、

引退試合では、一つ下の学年の子と組むことになり、

あっけなく敗北した。

もうスポーツは向いていない、

一生やりたくない。

そう思ってテニスを引退した。

スポーツに対するあらゆる自信を失った期間だった。

加えて、ペアとの確執が原因で、

テニス部のメンバーからも

仲間外れにされるようになった。

前衛くんには常に味方がたくさんいて、

試合に負けた後に僕が嫌な態度をとると

みんなが彼の味方についた。

それが積み重なったせいか、

友達が1人、また1人と減っていった。

部活を引退した後、

僕の周りに友達といえる人は

いなくなっていた。

対して、

勉強は運動よりはマシだった。

しかし、入学して最初の定期テストで

いきなりこけた。

やらかした教科は英語。

中学で英語を習い始めて最初のテストは、

アルファベットを覚えたり、

HelloとかMy name is ...とか

簡単な単語やあいさつを覚えるレベルである。

そのテストの平均点は85点ぐらいだった。

周りのほとんどが悪くても8割近くとり、

100点もたくさんいた。

そんな中、

僕の手元に返って来た答案はなんと35点。

おそらく学年でも最下位に近いレベル。

前の席に座っていたK君という友達から

「山下、点数ひっく!」

という容赦ない言葉。

心が深くえぐられた。

※このK君は、同じ少年野球チームのエースで4番。勉強もできるし、親が医者で家もクソでかい。この後、別の形でまた登場する。

他の教科でも、

1教科も平均を超えることができず、

勉強でもつまづいてしまった。

親からは塾に入ることを勧められたが、

どうしても自分の力でやり切りたいと思い、

断っていた。

結果、

中学3年間は一向に成績が伸びず、

平均付近をさまよい続けた。

それでもなんとか高校は、

島内イチの進学校()に進むことができた。

3年間努力して成績を上げたわけではなく、

単純に定員割れだった(田舎の高校でよかった)

振り返ると、

感情を表に出せず、

自分を表現することができず、

どんどん内にこもっていった中学生活だった。

それでも負けず嫌いで、

ストイックに努力を続けてくれた

過去の自分には

本当に感謝してもしきれない。

運動は大嫌いに、

勉強では自信を無くし、

その劣等感から

友達もほとんどいなくなった。

それでも何かで見返してやりたい、

ぎゃふんと言わせてやりたい、

その思いから、

高校には勉強一本で行こうと決めた。

高校は淡路島で一番の進学校、

洲本高校に進学した。

高校野球好きの方は、

もしかしたら聞いたことがあるかもしれない。

2012年に21世紀枠で

春のセンバツ高校野球に出場した高校だ。

ちょうど僕の同級生たちの代だった。

野球、テニスと失敗してきた僕は、

入学時点で高校3年間を勉強に捧げることを決めていた。

中学の時は平均ぐらいの成績。

何となく高校では、

もう少し上位にいるのではと感じていた。

入学時に同じクラスになった

別の中学の子たちがアホっぽかったからだ。

入学早々、実力テストがあった。

全教科学年順位が出る。どれも平均ぐらいだ。

その中で、

一つだけ突出したのが国語だった。

学年240人中239位

嘘やろ、、、

答案を持つ手が震えた。

あまりの衝撃に、

机の下でこっそり見ることしかできなかった。

僕の前に座っていた

ひときわチャラい同級生M君。

いかにもアホそうだなーと思っていたが、

「イェーイ!! 国語1位!!!!」

よりによっ彼が学年1位だった。

心の底から悔しかった。

入学早々にこんな悔しい出来事があったおかげで、

道をそれることなく、勉強に集中できた。

運動部で文武両道をめざすのも

かっこいいなと思ったが、

僕には無理だと感じ、

活動日が週一回の科学部を選んだ。

運動部たちが青春を謳歌する中、

僕はビーカーで薬品を

混ぜ混ぜするような部活を過ごした。

入学時の実力テストでは、

国語が足をひっぱり偏差値45ぐらい。

それでも自分の可能性を信じ、

偏差値が高い国公立に絞り、

神戸大学、大阪市立大学あたりを

目標にすることにした。

高校の授業が始まった段階で、

とにかく大学入試を意識して、

勉強に取り組んだ。

幸い高校でも友達は増えず、

休み時間はひたすら資料集や参考書の読み込み。

ちょうどスマホの普及が始まった頃で、

同級生たちが休み時間にスマホでゲームをしたり、

ワイワイ遊んだりしているの中、

ひたすらイヤホンでシャットアウトし勉強に徹した。

土日は図書館へ行って、

参考書を読みながら

授業ではまだやっていない

先の範囲の学習を進めた。

高1の頃のテストは、

運動部の一夜漬け勢に勝てなかったが、

実力が問われる模試では

段々順位を取れるようになっていった。

入学時に国語1位だったM君は、

定期テストも模試も

ほとんどが学年1桁順位だった。

しかも、

陸上部では短距離走のホープで

高1ながら部全体の選抜メンバーにも

選ばれるほどの実力だった。

それになんと、

めちゃくちゃかわいい彼女がいた!!

(勉強よりも嫉妬していた)

そんなM君を見ながら、

「世の中はなんて不公平なんだろうなぁ」

といつも感じていた。

M君はもちろん友達も多く、

性格も抜群にいい。

僕のようなインキャにも優しかった。

同じ班だったので、

いつも掃除当番が同じだった。

友達なんて言葉を当てはめると

おこがましくてならないが、

M君は僕を友達として扱ってくれた。

よくおすすめの参考書や勉強法を

聞いてきてくれて、

僕が答えると「へぇー、なるほどな!」と

でっかいリアクションで反応してくれた。

「アンタ、俺より成績ええやないか!」

と心の中で思ってたけど。

正直自分の秘伝の勉強法を、

運動部の青春謳歌イケメン君に

教えるのは気が引けたが、

彼は優しかったので何となく心許してしまった。

クラスの中心人物だったので、

仲良くしておけばいざという時に

守ってもらえるのでは、という算段もあった。

勉強、スポーツ、人間性、恋愛、あらゆる面で

才能に溢れるM君を見て、

「こういう人が世界の主人公なんだろうなぁ」

と感じていた。

と同時に、

圧倒的な才能の差を見せつけられたことで、

自分は明らかに脇役で、

今後何をやってもそこそこ止まりになる気もした。

今もし、

このnoteをM君が読んでくれていたら、

どう感じるのだろうか。

あの時の「山下君」の面影は、

どこにもないと思うよ。

でも、

M君がこのノートを読むことは

永久にあり得ない。

なぜなら、

彼は高校2年の夏に病気で亡くなったのだ。

白血病だった。

先生からその話があった時、

クラスのみんなが泣いていた。

僕は彼の死に対する、

悲しさや悔しさではなく、

世の中に対する憤りを感じていた。

「こんなに才能に恵まれた主人公キャラが死ぬなんて、

いったいこの世界の主人公は誰なんだよ!」

その時答えは思い浮かばなかったが、

主人公キャラのM君が亡くなったことで、

脇役でしかないと思っていた自分に

少しずつ自信を持つようになった。

そして、

あんなに才能を持っている人でも死ぬんだから、

自分みたいな脇役なんて、

すぐに神様に選ばれて死ぬんじゃないかと思った。

自分ももっと努力して、

主人公になって生きてやる!と

思うようになった。

思考回路は意味不明だが、

当時は本気でこのように考えていた。

これが契機になったのかは不明だが、

高2の夏を過ぎてから

僕の成績はグングン上昇していった。

定期テストも模試もほとんど1桁順位。

1位を取ることも珍しくなくなった。

一方で、

運動や人間関係はさらに壊滅的な状態に。

50メートル走のタイムは学年で最下位で、

自分の小学3年生の時のタイムと同じだった。

勉強に熱中しすぎたせいか、

彼女ができないのは当たり前で、

女友達はおろか、

男の友達すらほとんどいなくなった。

おそらくこのせいだと思うが、

今振り返っても

高校時代の記憶がほとんどない。

まあ誰とも遊んでないし、当然か。

友達はいないし、

彼女もできるわけないし、

早く大学に行って見返してやるぞー!

というモチベーションでひたすら勉強を続けた。

定期テストも模試も負けたくなかったので、

全てに全力で準備をして臨んだ。

結果につながらないこともあったが、

最後には報われると信じて

常に手を抜かずに勉強をし続けた。

高3になってからは、

とにかく参考書を買いあさり、

模試を受けまくった。

お正月にもらったお年玉も、

誕生日にもらったお小遣いも

参考書や模試の受験料に使っていった。

僕の住んでいた淡路島には

予備校がなかったため、

模試を受けるためには

神戸まで受けに行く必要があった。

学校では進研模試しか実施してくれなかったので、

毎週のように高速バスに揺られ、

三宮にある河合塾や駿台の教室に通った。

家から会場までだいたい3時間ぐらいかかるため、

早朝まだ真っ暗な時間に自転車を漕ぎ始め、

30分かけてバス停に行き、

始発のバスに乗るようなことも多かった。

地元には個人経営の塾しかなく、

書店も小さなものしかなかったため、

都会の予備校や参考書の揃った

大型書店が死ぬほどうらやましかった。

今思うと、

自分を取り巻く「環境」は

本当に自分の人生に大きな影響を

与えるんだなと感じる。

本当は予備校も通ってみたかったし、

東進で林先生の「今でしょ」とか

聞いてみたかった。

でも当時は、

生まれ育った環境を言い訳にするのは

甘えでしかないと思って、

ひたすら自己流で勉強を続けた。

迎えたセンター試験。

年が明けてからは、

毎日15時間ぐらい勉強していたので、

正直自信はあった。

ただ、

これまでの人生で「本番」に

とことん弱かったことがやはり気がかりだった。

これだけやってきたんだから大丈夫。

誰よりも早いタイミングで受験勉強を始め、

誰よりも真面目に勉強に取り組んできた。

さすがに神様は報いてくれるだろう。

信じよう。

そう思って当日を迎えた。

初日、

1教科目が終わった。

まずまずだった。

休み時間にトイレにいった。

そこでなんと、

中学時代に僕の成績を

ばかにしてきたK君に遭遇した。

(親が医者、少年野球のエースで4番のK君である)

高校は別だったので、3年ぶりだった。

「おぉ、山下やん! お前、どこ志望?」

「大阪市立大学」

「ふーん。おれ、医学部志望やから

センターとかお遊びレベルやわwwwwww」

「そっか、すごいな、、、」

これで、僕の心に完全に火が灯った。

絶対こいつよりいい点数を取ってやる。

絶対こいつよりいい大学に行ってやる。

強く心に誓った。

このM君からの一言で心に火が灯ったおかげで、

その後の試験は完全にゾーンに入ったような

集中力を発揮することができた。

その結果

なんと

全教科合計点86%

自己ベスト。

校内1位だった。

2013年のセンター試験は難化と言われた年で、

現代文で「スピンスピンスピン!!」が出題された年だ。

合計点数の全体平均が5%も下がる中、

僕は自己ベストから

5%アップの86%の点数を取ることができた。

答え合わせをした時、

手が震えて、

涙が止まらなくて、

1人で叫んだ。

初めて

「本番」でまともな成績を残し、

自分の持っているもの以上の、

実力を出すことができた経験だった。

その後、

二次試験は難なく通ることができ、

無事志望していた

大阪市立大学に合格することができた。

神戸大行けたやん!

と思うかもしれないが安全圏をとった。

例のK君はセンターでこけて、

二次試験を前に足切り。

浪人の道を選んだと聞いた。

(ざまあ見やがれえええええええ)

ちなみに大学入学後に、

受験の成績を開示すると

なんと学部2位の成績だった。

田舎でも、

塾に行かなくても、

努力があれば通用した。

自信になった。

中学、高校と暗黒の時代を

過ごしてきたが、

最後の最後に明るい未来が見えた。

頑張ってきてよかった。

勉強で勝てたなら、

もう人生イージーモードだろう。

そして、

人間関係もリセットされる。

大学では思いっきり遊んで、

思いっきり青春したい。

妄想に夢が広がった。

期待を胸に抱きながら、

僕は大学に進学した。

まさか大学で

あんなことになるなんて

この時の僕は知る由もなかった。

~第二章 暗黒時代~ (完)

P.S.

暗黒時代すぎて中高の写真がないか親に聞いたところ、サムネの写真1枚しかありませんでした笑

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