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10年。あの日のこと、そしてそれから。 2

 本当は1つの記事におさめるつもりだったのですが、想定よりも長くなってしまいました。前回の記事を読んでくださった皆様に御礼申し上げます。初心者の駄文で、相当に読みづらい部分もあるかと思います。今回は続きですが、最後までお付き合いいただけると幸いです。

 前回の記事はこちら。


 雪が降り始め、気温がぐっと下がっても何となく家の中に入るのが憚られました。家の中の現実を見るのが辛かったのかもしれません。

 どのくらいの時間を外で過ごしたのでしょう。ただ呆然と過ごしていると、仕事を早く切り上げた母が帰宅しました。何とも言えない安心感。ただただホッとしたことを今でも覚えています。

 その後のことは正直、あまり覚えていません。母が帰宅したことにより安心したのか、緊張の糸がプツンと切れてしまったのか。家の中に入って片付けをしたのでしょうが、テレビや電話が床に落ちているのを覚えているだけで作業した記憶がありません。

 後から聞いた話ですが、母も私がひとりで家にいることが心配で急ぎ帰宅したそうです。高校生ながら人一倍捻くれ者の私をよく理解している母だからこそ、私の弱い部分も理解していたのでしょう。不安で不安で仕方がなかった私は、本当に救われました。父も姉も仕事や学校に行っていて、いつ帰ってきたのか覚えていないのですが母の帰宅だけは鮮明に覚えているのです。家族には内緒の話です。

 ここで思い出すのは私の祖父のこと。祖父はこの日バス旅行に出かけていたため不在でした。そんな祖父が帰ってきて「そんなに揺れたかなあ?」と言ったのには流石に笑いました。あれだけの揺れですからバスに乗っていたとしても相当揺れたと思うのですが。と言うかおそらく運転手さん、運転できなくなったと思います。まあ、何事もなく無事に帰ってきてくれたので運転手さんには感謝しなければならないですね。

 そうこうしているうちに暗くなり始め、停電しているという事実をまざまざと突きつけられました。3日間の長い停電生活の始まりです。これだけ長い停電は経験がありません。この3日間で、電気がないという生活がいかに不便であるか身をもって知ることとなります。

 被災地の多くでライフラインが分断され、電気はもとより水道、ガスも止まり、どれほどの人たちが困り果てたことでしょう。我が家は井戸水を使っています。通常井戸水はポンプを使って家中の水道に供給されます。言うまでもありませんがポンプの動力源は電気です。当然停電となれば水が出ません。電気自体が使えないことは、困るには困るのですが意外と何とかなります。照明はロウソクや懐中電灯がありますし、暖房も灯油ストーブがあったので困りませんでした。しかし、水が出ないという現象は想像以上にストレスが溜まります。料理、トイレ、お風呂。全てに影響が出てきます。震災の苦しい記憶とともに浮かぶのは水が使えないこの3日間の記憶です。

 その日の夜は暗い台所でカレーを作りました。ガスが使えなかったので灯油ストーブに鍋をかけて。ロウソクの心許ない光の中で食べたカレーの味は忘れてしまったけれど、あの時間だけは忘れないでしょう。

 携帯電話の小さなテレビ画面の向こうには、荒い画質の中に津波の被害がはっきりと映し出されていました。アナウンサーが報じる行方不明者の数に恐怖と不安を抱えつつ、余震の収まることのない長い夜が始まりました。

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