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10年。あの日のこと、そしてそれから。 5

 高校3年生に進級する私には、明るい未来が見えていませんでした。あの、暗くて息苦しい日々を思い起こすと未だに胸がぎゅーっと締め付けられますが、自分自身のために書き記したい。書き残したい。そんな思いで記事を書きます。

 前回までの記事はこちら。

 春休み中に、原発がどんどん爆発して、焦った父が仕事先からメールを送ってきました。

 『原発がやばいから避難する用意をしたほうがいい』

 短い文面が危機感をより一層煽ります。自分が持っている中で一番大きいボストンバッグに着替えや日常品などを詰め込みました。結果的にこの避難バッグが使われることはなかったのですが、春休みが明けてからしばらくの間(おそらくゴールデンウィーク辺りまで)スタンバイされていました。

 春休み明けの高校生活は、それまでとあまり変わることなく続きました。正直学校があまり好きではなかった私は、相変わらず鬱々とした日々を送っていました。

 変わったことと言えば、学校の屋外渡り廊下が使えなくなったこと。放射性物質の溜まり場(所謂ホットスポット)となっていたようです。

 あとは被曝量を管理するために市町村からガラスバッジが配られたこと。首から下げて服の中に入れておけばその人の累計被曝量が測れるものです。

 そして学校内に別の学校が入ったこと。

 これはサテライト校と呼ばれ、原発事故の影響で避難区域に設定された学校が別の学校に間借りしたり仮校舎を建てたりして授業を行うものです。

 私が通っていた高校にも1校とその分校のサテライト校が入りました。

 同じ敷地内に2つの制服。お互い何か言葉を交わしたりするわけではないのですが、その教室の前を通る時は何となく緊張しました。決してガラが悪そうだったとかそんなことはないですよ。私が臆病者だっただけです。

 そんな毎日を送って、テストがあって夏休みになって、進路が決まって。高校3年生という変化のある年を私も1歩1歩進んでいました。いつかの羅針盤は周りのサポートもあって進むべき道を指し示していました。

 私の進路は、進学せず就職するというものでした。これ以上勉強したくない、親に金銭的な負担をかけたくないという理由からでした(結果的に就職してから今日まで毎日勉強する羽目になりますが)。

 詳しくは書けないのですが、幼い頃から憧れのあった職の内定をいただくことができました。保安系の仕事なので震災の影響が少なからずあったのかもしれません。肝心な時に逃げてしまう自分が、この仕事を今日まで辞めることなく続けられたのも、10年前のあの日の記憶がそうさせているのでしょうか。

 この記事を書いている3月31日という日は記録的な暖かさで、私が住む福島県でも桜が咲き始めています。

 私の記憶だとこの時期に桜が咲いたことなどなかったのですが、何かを想うように、静かに、確実にその花びらを広げつつあります。

 そんな桜の花を見ながら、震災から10年という月日を振り返ってみると、私の中では何かの区切りがついたとかそんな感じは一切ありません。

 節目という言葉をよく耳にしますが、10年経っても何かが変わるわけではありません。ただ少しずつ、そこに住む人たちの営みが積み重ねられていくだけです。

 復興という目に見える積み重ねと、心の傷という目には見えない積み重ね。

 私たちが忘れてはならないことは、目に見えるものよりも目には見えない被害の方が大きいということです。それは一生治ることのない傷です。それを広げたり、えぐったりしてはいけません。

 気づいて、考えて、ただそばにいて。それだけでいいのです。

 新型コロナウイルスのパンデミックにより人と人との距離が離れつつあります。しかし、物理的な距離が離れてしまっても心の距離は離れずに寄り添うことが出来るのではないでしょうか。

 祈り。ただそれだけでいい。

 私たちにできることは、何なのか日々自問自答しながら前に進むしかありません。

 福島県では、これから先何十年と福島第一原子力発電所の廃炉作業が続きます。

 私が生きている間に、福島が本当の意味での”復興”を遂げることを祈りつつ、やっぱりまとまりのない文章になってしまったなと後悔しながらこの記事を締めたいと思います。 

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