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タッカー・カールソンのプーチン大統領インタビュー:ソ連崩壊までの歴史

タッカー・カールソン氏が行ったプーチン大統領のインタビューの見どころは、やはり冒頭の歴史講義にあったように思う。そこで、今回はカールソン氏も後から真価に気づいたという冒頭部分をまずは翻訳してお伝えする。


カールソン: 大統領閣下、今日はどうも。早速ですが、2022年2月22日、ウクライナでの紛争が始まったとき、あなたは国民に向けた演説で、米国がNATOを通じて「我が国に奇襲攻撃」をするかもしれないという結論に至ったから対処しているのだと仰った。それで、米国人の耳にはこれはどうも被害妄想的に聞こえるのですよ。なぜあなたは米国が奇襲するかもしれないと思うのか教えてください。どうやってその結論に至ったのですか?

プーチン: 米国がロシアに対して奇襲攻撃を仕掛けるということではなくて、そうは言ってないです。今回はトークショーですか、それとも真面目な会話ですか?

カールソン:名言ですね。どうも、ずいぶん真面目ですね!

プーチン: 聞くところによると、あなたは歴史を専攻してたそうですね。

カールソン:はい。

プーチン: それで、もしよかったら、30秒か1分だけお時間を頂戴して、歴史的背景をちょっと説明しようと思います。

カールソン: ぜひとも。

ノヴゴロドの位置関係図(Новгородская область на карте России

プーチン: まず、我々とウクライナの馴れ初めから見てみましょう。ウクライナの発祥とはどんなものなのでしょうか。国家としてのロシアは862年に中央集権的な国家として誕生しました。ノヴゴロドの町の人々がリューリクというヴァリャーグ人の王子をスカンジナビアから招いて、統治させたこの年が、ロシア建国の年とされます。1862年にはロシアは建国千年を祝い、ノヴゴロドには建国千年記念碑があります。
882年になると、リューリクの後継者であるオレグ公が(本当はリューリクはその時にはもう亡くなっていたので、リューリクの幼子の摂政の役割をしていたわけですが)キエフに来ました。彼はかつてリューリクの仲間だったらしい2人の兄弟を追放しました。こうやって、ロシアはキエフとノヴゴロドという2つの都を持つ形で発展し始めたのです。
次に、ロシアの歴史において非常に重要なのは988年でした。これはロシアの洗礼の年で、リューリクの曾孫であるウラジーミル1世がロシアを洗礼して正教、あるいは東方キリスト教を採用した年です。この時から中央集権化されたロシア国家が強くなり始めます。なぜかわかりますか?それは単一の領土、統一された経済関係、同一の言語、そしてロシアの洗礼を経て、均一の信仰と公の支配があったからです。中央集権化されたロシア国家が形成され始めたのです。
中世の頃には、ヤロスラフ賢公が王位継承順序を導入しましたが、彼が亡くなった後、さまざまな理由で厄介なことになりました。王位は父から長男へ直接渡されるのではなく、亡くなった王からその兄弟へ、そして異なる血筋の息子たちへと渡されました。こんな有様だったので、ルーシ国家は分裂し、単一国家ではなくなってしまいました。それは何も珍しいことではなくて、当時はヨーロッパでも同じことが起きていました。

しかし分裂したロシア国家は、いとも簡単にチンギス・ハーンが建国した帝国の餌食になりました。彼の後継者は、具体的にはバトゥ・ハーンのことですが、ルーシに来ると、ほとんどすべての都市を略奪し、破壊しました。キエフやその他いくつかの都市を含む南部は、完全に支配下に置かれてしまいましたが、北部の都市は主権の一部を維持できました。彼らはオルドに朝貢しなければなりませんでしたが、主権の一部はなんとか保っていました。それで、統一されたロシア国家はモスクワを中心に据えて形成されていくことになったのです。

キエフを含むロシアの南部の土地は、徐々にヨーロッパで出現していたもう一つの中心地、すなわちリトアニア大公国という「磁石」に引き寄せられるようになりました。それはリトアニア・ルーシ大公国と呼ばれることさえありました。なぜなら、その人口の大部分はロシア人であり、彼らは古ルーシ語を話し、正教徒だったからです。しかし、その後リトアニア大公国とポーランド王国の統合がありました。数年後別の統合が、今度は宗教的な領域で行われました。いくらかの正教会の聖職者がローマ教皇に従属することになったのです。こうして、これらの土地はポーランド・リトアニア共和国の一部となりました。
何十年もの間、ポーランド人はこの人達を「ポーランド化」しようとしました。彼らはそこに自分たちの言語を導入し、この人口が完全にはロシア人ではなく、国境(クラヤ)に住んでいるため「ウクライナ人」なのだという考えを植え付けようとしました。元々「ウクライナ人」という言葉は、辺境で国家の外郭に住んでいる人、または国境での仕事に従事している人を意味していました。それは特定の民族集団を意味するものではありませんでした。
それで、ポーランド人はあらゆる手段でロシアのこの地域をポーランド化しようとして、残酷というわけではありませんけど、実際のところかなり厳しく扱いました。そういうことが重なって、ロシアのこの地域は自らの権利のために闘う結果になったのです。彼らはワルシャワに手紙を書き、キエフなどに官吏を送って自分たちの権利が尊重されるようにしてほしいと要求しました...

カールソン:申し訳ないのですけど、いつの…私達が歴史のどこにいるかわからなくなってしまって、教えてもらえますか?

プーチン:13世紀以来の話です。これからその後何が起きたかをおはなししますが、混乱が無いように年号も言うようにしますね。そして1654年、あるいはもう少し前に、ロシアの当該地域を支配していた人々は、ワルシャワに向けて、繰り返しになりますが、自分たちの権利が尊重されるべく、ロシア系で正教徒の統治者を送ってほしいと要求しました。ワルシャワが彼らに応えず、実際、彼らの要求を却下したとき、彼らはモスクワが彼らを引き取ってくれるように、モスクワの方を向いたのです。
私がでっち上げてるとあなたが思わないために…この書類をお渡ししますね…

カールソン:でっち上げているようには聞こえませんけど、これが2年前に起きた事になぜ関係があるのかよくわからないです。

プーチン:とにかく、これは公文書館からの文書です、写しですけど。ここにあるのは、当時このロシアの地域、今ではウクライナと呼ばれている地域で権力を握っていたボグダン・フメリニツキーの手紙です。彼はワルシャワに手紙を書き、自分たちの権利が守られるよう要求し、拒否されると、モスクワに手紙を書いて、モスクワのツァーリの強力な御手元に収めて欲しいと頼みました。これがその文書のコピーです。覚えやすいようにお渡しします。ロシア語に翻訳されていますので、後で英語に翻訳できる事でしょう。
ロシア側はポーランドと戦争になると想定し、すぐには受け入れませんでした。とにかく、1654年には、古ロシア国家の権力の代表機関であるところの、ツァーリが率いる高位聖職者と地主の全ロシア会議(ゼムスキー・ソボル)が、古ロシアの土地の一部をモスクワ王国に編入することを決定しました。
予想通り、ポーランドとの戦争が始まりました。戦争は13年間続き、その後1667年に和平に至りました。そして(訳註:開戦から)32年後にして、だったと思いますが、「永遠平和条約」と呼ばれるポーランドとの平和条約が締結されました。そしてこれらの土地は、キエフを含むドニエプル川の左岸全体は、ロシアに渡り、ドニエプル川の右岸全体はポーランドに残りました。
エカチェリーナ大帝の治世下で、ロシアは歴史的な土地をすべて取り戻しました。この一連の流れは革命まで続きました。第一次世界大戦前に、オーストリアの参謀本部はウクライナ化の思想に依存し、ウクライナとウクライナ化の思想を積極的に推進し始めました。その動機は明らかです。第一次世界大戦直前に、彼らは仮想敵国を弱体化させ、国境地帯で自分たちに有利な条件を確保したいと考えていました。ですから、ポーランドで出現した思想、つまりその領土に住んでいる人々は厳密にはロシア人ではなく、特別な民族集団である「ウクライナ人」に属しているという思想が、オーストリアの参謀本部によって宣伝され始めたのです。
ウクライナ独立論者たちの出現は、19世紀にまで遡れます。しかし、彼らは皆、ウクライナはロシアと非常に良好な関係を持つべきだと主張していました。彼らはこの点を強調していました。1917年の革命後、ボリシェヴィキは国家の権威を回復しようとし、ポーランドとの戦闘を含む内戦が始まりました。1921年、ポーランドとの和平が宣言され、その講和条約の下で、ドニエプル川の右岸は再びポーランドに返還されました。
1939年に、ポーランドがヒトラーと協力した後…ヒトラーと協力したんですよ、知ってますか…ヒトラーはポーランドに平和や修好条約や同盟を申し出て、(関連する文書は公文書館ですべて保管しています)見返りとしてドイツに、ドイツの大部分と東プロイセンおよびケーニヒスベルクを結んでいた、いわゆるダンツィヒ回廊を返還することを要求しました。第一次世界大戦後、この領土はポーランドに移管され、ダンツィヒの代わりにグダンスクの都市が出現しました。ヒトラーはそれを友好的に渡すように求めましたが、彼らは拒否しました。それでも彼らはヒトラーと協力し、チェコスロバキアの分割には参加しました。

カールソン:あの、すみません…あなたは、ウクライナというかウクライナの一部、実際には東ウクライナが何百年もの間ロシアだったと立証しようとされていますが、なぜ、あなたが大統領になった24年前にとってしまおうとしなかったのでしょうか?あなたには核兵器があって、彼らには無いわけです。あなたの領土なのでしょう?なぜ今になるまで待ったのですか?

プーチン: お答えします。その点を説明しようしとしているのです。この解説は終わりに近づいています。退屈かもしれませんけど、色々と関係してくるのです。

カールソン: 退屈だというつもりではなかったんです。

プーチン: よかった、よかった。ご理解いただけてとても嬉しいです。ありがとうございます。
それで、第二次世界大戦前、ポーランドはヒトラーの要求には屈しなかったものの、ポーランドはヒトラーと協力して、結局のところヒトラーと共にチェコスロバキアの分割に参加したのです。ポーランドはダンツィヒ回廊をドイツに譲らず、しかもやりすぎて、ヒトラーに彼らを攻撃させることで第二次世界大戦を始めさせるところまで追い詰めたのです。1939年9月1日に始まった戦争が、ポーランドに対するものだったのはなぜでしょうか?振り返ってみればポーランドは妥協を知らず、ヒトラーとしてはポーランドに対する計画を実施するしかどうしようもなかったわけです。
ちなみに、私は公文書を読みましたけど、ソ連はとても誠実に振舞いました。チェコスロバキアを助けるために自軍をポーランド領土を通過させる許可をポーランドに求めました。しかし、当時のポーランドの外相は、ソ連の飛行機がポーランド上空を飛ぶなら、ポーランド領土上で撃墜してやると言いました。まあ、どうでもいい事ですけど。大事なことは戦争が始まって、独ソ不可侵条約によってウクライナ西部を含むポーランド領土の一部がロシアに与えられることになったことで、ポーランドはチェコスロバキアに対して行った政策で自爆したということです。こうして、当時ソ連と呼ばれていたロシアは、その歴史的な領土を取り戻しました。
大祖国戦争と我々が呼んでいる、第二次世界大戦での勝利の後、これらの領土は全て最終的にロシア、ソ連に属するものとして確定されました。ポーランドについては、元々ドイツだった土地、つまりドイツの東部(現在はポーランドの西部)をどうやら補償ということで受け取りました。もちろん、ポーランドはバルト海への出入口を回復し、ダンツィヒは再びポーランドの名前を与えられました。このように事態は展開していったのです。
1922年、ソ連が設立されたとき、ボリシェヴィキはソ連を建設し始め、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国を設立しましたが、それは以前には全く存在しなかったものでした。

カールソン:そうですね。

プーチン:スターリンは、これらの共和国が自治区としてソ連に含まれるべきだと断固主張しました。到底説明のつかない何らかの理由で、ソビエト国家の創設者であるレーニンは、ソ連から離脱する権利を付与すべきだと断固主張しました。そして、またしても何らかのよくわからない理由で、これらの領土がウクライナと呼ばれたことはこれまで一切なかったのに、彼はその土地をそこに住む人民と共に、新しく設立されたソ連ウクライナ共和国に移管しました。これらの領土には、ウクライナとは何ら歴史的関係も無い、エカチェリーナ大帝の下で受け取った黒海地域も含まれていました。これらの領土がロシア帝国に戻った1654年にまで遡ったとしても、その領土は現代ウクライナの3〜4地方の大きさであって、黒海地域は関係ありません。それは完全に問題外でした。

カールソン:1654年にですか?

プーチン:全くその通りです。

カールソン:あなたが、この地域について百科事典のような知識をお持ちなことは、なるほどわかりました。しかし、なぜあなたは大統領としての最初の22年間立証をしなかったのですか、ウクライナは本当の国ではないと?

プーチン:ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は、それまでそこに属したこともなかった国会地域を含む、広大な領土を与えられたのです。どこかの時点で、ロシアがロシア・トルコ戦争の結果としてそれらを受け取ったとき、それらは「新ロシア」またはノヴォロシアと呼ばれていました。しかし、そんなことは関係ありません。大事なことは、ソ連国家の創設者であるレーニンがそのような形でウクライナを設立したことです。何十年にもわたってウクライナ・ソビエト社会主義共和国は、ソ連の一部として発展しましたが、またしてもよくわからない理由で、ボリシェビキはウクライナ化に取り組みました。これは単にソ連の指導部にかなりの部分をウクライナ出身者が構成していたからというだけのことではありませんでした。どちらかというと、これはソ連が追求した土着化の一般的政策によるものとして説明されました。他のソビエト共和国でも同じことが行われました。これには国民言語や国民文化の促進が含まれていて、それ自体は原理的には悪いものではありません。このようにしてウクライナ・ソビエト社会主義共和国は創られたのです。第二次世界大戦後、ウクライナは、戦前にポーランドに属していた土地に加えて、以前はハンガリーやルーマニア(現在は西ウクライナとして知られている)に属していた土地の一部を受け取りました。ですから、ルーマニアとハンガリーは自国の領土の一部をウクライナに取られて、それらは今もウクライナの一部となっています。ですからそういう意味で、我々としてはウクライナがスターリンの意志によって形成された人工的な国家であると言わざるを得ないのです。

カールソン:ハンガリーはウクライナから自国の領土を取り戻す権利があると思いますか?また、他の国々も1654年の国境に戻す権利があるのでしょうか?

プーチン:1654年の国境に戻るべきかどうかはわかりませんが、スターリンの時代、いわゆるスターリン体制では、人権侵害や他国の権利侵害が多くあったと多くの人が主張する中で、彼らが自国の土地を取り戻すことを主張することは、そうする権利はないまでも、少なくとも理解できるとは言えるでしょうね。

カールソン:ヴィクトル・オルバーンに、ウクライナの一部を取っても良いと言ったことはありますか?

プーチン:全然。全く言ったことはありません。一度たりとも。この件については何の会話すらしたこともありませんが、そこに住むハンガリー人が歴史的な土地に戻りたがっていたことについては、実は私は確実に知ってるんです。それに、私はあなたに非常に興味深い話を共有したいのですけど、手短にしますね、個人的な話です。80年代初頭のある時、私は当時のレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)から、車でソ連横断旅行をして、キエフに立ち寄り、そこから西ウクライナへと向かいました。ベレゴヴォイェの町に行くと、そこでは町や村の名前がロシア語と私の知らない言葉、ハンガリー語で書かれていました。ロシア語とハンガリー語でした。ウクライナ語ではなく、ロシア語とハンガリー語でした。私が村のような所を車で通って行くと、そこには男性たちが、スリーピースの黒いスーツと黒いシリンダーハットを着て座っていたんです。私は「彼らは何かの見世物ですか?」と尋ねました。(訳註:すると、)「いいえ、見世物ではありません。彼らはハンガリー人です。」と教えてくれました。「彼らはここで何をしているのですか?」と私は言いました。(訳註:返事はこうでした、)「どういう意味ですか?これは彼らの土地です。彼らはここに住んでいます。」これはソ連時代の80年代の話です。彼らはハンガリー語、ハンガリー人の名前、そして彼らのすべての民族衣装を保持しています。彼らはハンガリー人であり、自分たちをハンガリー人だと感じています。そしてもちろん、侵害がある今となっては...

カールソン: そういうことも多々あるでしょう、と私は思います。多くの国が不満を抱いて…トランシルバニア人もいれば、あなたがたも然り、他にもご存知の通り…しかし多くの国が20世紀の戦争後、あるいはあなたが言及された千年も前の戦争の数々で引き直された国境に不満を感じていることでしょうけれど、事実は、あなたはこの問題について2年前の2月までは立証しなかったということで、今日私が読んだあなたの主張というのは、西側とNATOからの物理的な脅威、核の脅威の可能性も含んで、詳細に説明していて、それがあなたを行動に移させたというものでした。あなたの言ったことはそのようなまとめ方でよろしいですか?

プーチン:私の長い演説がインタビューの形式から外れているだろうことはわかっています。ですから、最初に「真面目な話をするのか、ショーをするのか」と尋ねたのです。あなたは真面目な話だと言いました。ですから、どうか辛抱してください。
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国が設立されたところまでお話ししました。そして、1991年にソ連が崩壊しました。そして、ロシアがウクライナに寛大に授けたすべてのものが、後者によって「ぶん取られた」のです。今日の議題の非常に重要な点に到達しつつあります。結局、ソ連の崩壊は事実上、当時のロシアの指導部によって引き起こされたのですから。当時のロシアの指導部が何に導かれていたのか、私にはわかりませんが、全部大丈夫だろうと考える理由は、いくつかあったのではないかと思います。
第1に、当時のロシアの指導部としては、ロシアとウクライナの基本的な関係は、実態として、共通の言語(そこでロシア語を話す人は90%以上)、家族の絆(3人に1人があちらに何かしらの家族や友情の絆を持っている)、共通の文化、共通の歴史、最後に共通の信仰、数世紀にわたる単一国家内での共存、そして経済の深い相互依存であると信じていたのだと私は思います。これらの要素全てをまとめると、私たちの良好な関係は避けられないものになります。
第2の点は非常に重要です。アメリカ市民であるあなたと、あなたの視聴者にもこれは聞いていただきたいのです。以前のロシア指導部は、ソ連が存在しなくなった以上、もはや思想的な分断線はなくなったと見込んでいたのです。ロシアはソ連の崩壊に自発的かつ積極的に同意さえして、これを以っていわゆる括弧付きの「文明化された西側」から協力と提携に向けた招待として理解されると信じました。それがロシアが米国、およびいわゆる集団的西側の全体の両方から期待していたことです。ドイツを含めて賢明な人々もいました。社会民主党の主要な政治家であるエゴン・バールが、ソ連の崩壊の瀬戸際においてソ連の指導部と個人的な会話で断固主張したのは、ヨーロッパにおける新たな安全保障体制を確立するべきだということでした。ドイツの統一を支援すべきですが、新たな体制には、米国、カナダ、ロシア、および他の中央ヨーロッパ諸国が含まれるようにして確立されるべきだとのことでした。しかし、NATOの拡大は無用であると。彼はこう言いました。「もしNATOが拡大すれば、ロシアの国境により近い場所で冷戦と同じ状況になるだけのことだ。それでは意味がない。」彼は賢明な老人でしたが、誰も彼のいうことを聞きませんでした。実際、彼は一度怒って(この会話の記録は公文書館にあります)、「私の言うことを聞かないなら、私は二度とモスクワに足を踏み入れない」と言いました。彼はソ連の指導部に不満を持っていました。彼が言った通りにすべてが起こったのですから、彼は正しかったわけです。

カールソン: まあ、確かに、そうなりました。そして、あなたはそれに何度も言及しています。私は、それは一理あると思います。そして、アメリカの多くの人達は、ソ連の崩壊後、ロシアと米国の関係は大丈夫だろうと本質的には思っていました。しかし、その逆になりました。


インタビューは、この後もまだまだ続く。ここまでに、日本人の我々としても外交上有益な情報、特に北方領土問題でどのように交渉すべきなのかについてが示唆されていると思う。この後は、中国の話題に入り、そして、ユーロマイダンへと進んでいく。次回の記事で紹介する。


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