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恋愛関係において境界を設定することは精神的DVなのか?

境界とは

 英語圏において、「境界」(boundaries)という言葉は恋愛関係の性質を理解するために重要なキーワードだ。この言葉の意味合いを巡って、今、論争が起きているのだ。発端は、ジョナ・ヒルというハリウッド俳優の元カノが、以前にジョナから受け取ったメールを暴露したことに始まる。この件を扱った記事があまりにも理不尽だったので、今回は、忘備録程度に書いておこうと思う。メールの内容は後ほど考えるとして、まずは境界という概念を簡単に考えておきたい。

 境界というのは、一般に分かれ目のことを指す。英語圏の恋愛関係においては「ここまでは良いけど、ここからはダメ」とカップルの間で、お互いに境界を示すことがよくある。これは、英語圏には神が定めた境界が守られないことが当然のようになっている社会が多いことも関係すると思われる。さらに言えば、結婚しない状態でのお付き合いや安易な離婚がまかり通る社会でもある。だからこそ、人間自身が自らが許容できる範囲、すなわちどの線を越えたら恋愛関係の持続が不可能になるのかを、相手に通告する必要が出てくるのだ。それによって、相手に許容される範囲内においては自由を得られるという意味で、安心感が生まれるというわけだ。

ジョナのメール

 ジョナが送ったメールはあらゆるメディアで紹介されていたようであるが、一体どんな内容だったのだろうか。概要をまとめる。

  • 男性とのサーフィンについて
    元カノが男性ばかりとサーフィンをしたいというなら、それはジョナとしては恋愛パートナーシップの境界線を超えていることが示されている。

  • 男性との境界線のない不適切な交友関係
    ジョナは、元カノが男性と不適切な、あるいはケジメのない交友関係を持つことを快く思っていないことを示している。これは、ジョナが元カノの交友関係に関して、適切な境界線と敬意を期待していることである。

  • モデルや写真の投稿
    ジョナは、元カノがモデル業に従事していたり、水着姿や性的な写真をSNSなどに頻繁に投稿するならば、それは恋愛パートナーシップの境界線を超えていると主張した。

  • 不安定な女性との交友関係
    ジョナは、元カノが「直近のどんちゃん騒ぎ」からではなく、安定した女性との交友関係を持つことを好むことを表明する。ランチやコーヒーで集まるような、まともな交友関係を維持することは、受け入れられるという。

 その上で、このようなことをしなければ気が済まないならば、ジョナは元カノにとっての適切なパートナーではないとした。一方で、もし元カノがこのようなことをすることで喜びを感じるようならば、それは支持するし悪くは思わない(英語のニュアンス的には「が別れる」ということでもある)とも表明している。ジョナは追伸で「あなたと付き合うにあたってのこれらの境界は、これらの行動が恋愛関係において信頼関係を毀損したからである」と述べている。

 上に紹介した記事などでは、このメールに出てくる「boundaries(境界)」という言葉がそもそも用法的に間違っていると指摘する。およそ、恋愛関係における境界とは、相手あるいは自分自身を尊重するために自分自身に課すものであって、相手方の行動を制限するためのものではないのだという論調である。相手を束縛しようなど、精神的虐待つまり日本でいうところの精神的DVだというのだ。しかしそのようなデタラメを言って言葉の定義を変えようという、いつもながらの手法は基礎になる現実を反映していないと言わざるを得ない。

健全な境界を設定すること

 前述したように、境界というのは、神の定めた婚姻の枠組みを超えて、自分が好きな時に好きな相手と付き合い、また別れるという形式の恋愛関係を構築する中で、相手側にどのような場合に別れることになるのかを事前に通告することで、無用な争いを防ぎ、恋愛関係の安定化を図るものである。従って、ジョナが自らが許容できる範囲を相手に伝える中で境界という言葉を使うことには何の誤りもない。

 さらに、ジョナが要求している境界の範囲もさほど厳しいとも言えず、健全な男女関係が築ける最低限のやや下方を求めているにすぎない。このメールを指して、「脅迫めいている」だとか「束縛的である」あるいは「精神治療用語の誤用」などという批判があるが、全く当たらない。恋愛関係は少なからず排他性があるものなのであって、「無制限のポリアモリーを認めろ、そうでなければお前の評判を貶めるぞ」などという態度はあまりにも過激である。

おわりに

 私が思うに、本来このような境界は「婚姻」、「夫の努め」、「妻の努め」という形で神によって設定されるものであり、人間はそのような厄介な交渉事からは解放されているのが正しいのである。そのような境界を突破して自由な境界設定を可能にすることは一見すると、自由を手に入れることにつながるように見えるかもしれないが、実際には、神の権威なき境界設定は相手からも、そして社会からも尊重されないというのが現実である。

 その点を度外視したとしても、今回の事件についてはメディアの報道姿勢があまりにも偏向していた。(シス白人)男性の権限を剥奪するのが正義であり、そのためなら何でもするのだという近代マルクス主義の成れの果てが、ここにも現れている。

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