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#66『トイレの話』Vol.2

今回の『トイレの話』は、古い日本トイレ事情について取り上げてみたいと思います。

「東司」
 「東司(=とうす)」は、京都の大本山東福寺にある建物です。この建物丸ごと一軒がいわゆる『トイレ』で、日本に残る最も古いトイレ建築として知られています。東福寺の「東司」は、境内の南東側にあり、幅10m、奥行き27mの大きくて立派な建物になります。かつて、隣には禅堂とよばれる建物があり、修行の場として使われ、修行僧のトイレとして利用されました。用を足すことも大事な修行の一つと位置つけられ、着衣を竿に掛けることから始まり、最後に手を洗い清めるまで12段階の作法が定められていました。
「ご閑所」
「ご閑所(=ごかんじょ)」は、戦国時代の武将、武田信玄が愛用していた「トイレ」のことをいいます。信玄が館で使用していた「ご閑所」は畳敷きで六畳以上あったそうです。朝、昼、晩交代で番役の家来が担当し香をたき、風呂の残り湯を利用して流す水洗式トイレでした。信玄にとって「ご閑所」は単なる用を足すところだけでなく、諸国から送られてきた書きつけに目を通したり、考えをまとめたりする仕事場でもあったようです。
二条城本丸御殿のトイレも畳敷きの砂雪隠(=排泄物を砂で覆い砂ごと取り除く)になっていました。江戸時代も武家屋敷では、畳敷きトイレが一般的であったようです。
「商品」
 オシッコやウンコは始末にこまる厄介者でした。江戸時代、庶民の多くは長屋と呼ばれる棟続きの住居に暮らしていましたが、家の中にはトイレがなく、外の共同トイレを利用していました。化学肥料がなかった時代、「肥」と呼ばれたオシッコやウンコは農家の貴重な肥料として買い取られていました。すなわち、「商品」であったわけです。江戸ではウンコだけが「商品」として扱われ、商品を売ってお金を手にすることが出来るのは長屋の大家で、後始末に加えて現金が手に入るまさに「一石二鳥」でした。長屋の大きさにもよりますが、「肥」は職人1人の1年間の収入およそ18~20両かそれ以上になったといわれますので、大家にとっては重要な収入源になっていました。大坂は江戸と事情が少し異なり、ウンコの代金は大家、オシッコの代金は借家人に入るようになっていました。
「水洗トイレ」
 日本で最も古い水洗トイレが利用されていた確かなものは7世紀末の藤原京といわれています。(藤原京=今の奈良県、694年~710年)藤原京の「水洗トイレ」は、宮殿や川の水を利用しやすい一部の地域に限られますが、後始末に悩まされた人々にとっては画期的なものでした。
世界の「水洗トイレ」の歴史では、パキスタンのモヘンジョ・ダロの遺跡からおよそ5,000年前の水洗トイレがれ発見されています。その他、パリ、ブリュッセル、マドリード、バルセロナ、セゴビアなどヨーロッパの各地で古い水洗トイレが使われていたことが分かっています。糞尿は不衛生であるばかりでなく、伝染病の流行の原因にもなるため、糞尿の処理は大きな国家的な問題でした。


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