読書の備忘録①(生の短さについて 他ニ篇 セネカ著 大西英文訳 岩波文庫)

読破にはいまだ至らぬ身ではありますが、忘れぬうちに筆を執ります。

われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。
(中略)
われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。
『生の短さについて 第一章』より引用

この言葉に胸に剣を刺されたようだった。

20余年あまり生きてきました。
そして、その多くの時間を費やし、たくさんの紆余曲折、一喜一憂を経てきた中で、その大半を浪費してきたのではないかと心中を暴かれているようでした。

時間という潤沢な財産を浪費した己のなんと愚かなことでしょう。

ただ、セネカはこうも言っています。

生は三つの時期に分けられる。過去、現在、未来である。このうち、われわれが過ごしている現在は短く、過ごすであろう未来は不確定であり、過ごした過去は確定している。過去が確定しているのは、運命がすでに支配権を失っているからであり、何人の裁量によっても取り戻せないからである。
(中略)
しかし、過去という、我々人間に与えられた時間のこの部分は、神聖にして聖別されたものであり、すべての人事を超越し、運命の支配権の及ぶ圏外に置かれ、欠乏にも、恐怖にも、疾病の襲撃にも脅かされることのない時間である。過去は掻き乱すことも、奪うこともできない。それは永遠で不安のない所有物なのである。
『生の短さについて 第十章』より引用

過去は確定され、過去そのものの存在自体が揺らぐことのない所有物であると言っています。つまりは、それを糧とすることが可能であるということではないでしょうか。

そうであれば、今までの浪費を浪費として絶望するのではなく、聖別された所有物として扱うかは自分次第というわけです。

これらの事柄を一言で置き換えられる言葉が、

『次に活かせばいい』

と言う言葉です。
正直に言えば、この言葉はあまり好きではありません。前向きではありますが、どこか投げやりにもきこえますし、無責任さを感じて敬遠しているところがありました。しかし、今旧き哲学者の言葉はこの言葉に違う側面に光を当ててくださいました。

そしてこれは旧き哲学者と書いた通り、歴史という壮大な人類の過去というものにも当てはまるということなのです。
この壮大さと偉大さに、胸が打ち震えました。

最後にその壮大さを表すセネカの言葉を。

名誉や記念碑など、野心が決議させて命じたものや労力を使って建立したものは、遠からず潰え去る。悠久の時の流れが毀たぬものは何一つなく、悠久の時の流れが変じぬものは何一つない。だが、英知(哲学)が聖化したものは毀損されえない。(中略)なぜなら、嫉みは身近なものに対してのみ働く感情であって、遠く離れたものに対しては、われわれは素直に驚嘆の念を抱けるものだからである。


追伸:丁寧な言葉遣いに気をつけたら堅苦しい言葉遣いになってしまいました…。なぜ…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?