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個展「何を見ても何かを思い出す」に寄せて


幼い頃、風景というものは、もたらされるものであった。
自分からは行き着く事は出ないが、誰かに連れて行ってもらって出会うもの、与えられるものであった。
初めて目にした風景は、五感のあらゆる部分から私の中に入り込んできた。

一番古い風景の記憶は、幼少期住んでいた東京都大田区の情景だ。
家族4人で暮らしたアパートの一室、家族で連れ立って行った、鳩がたくさんいる神社の境内、古さの残る街並み、通っていたお絵かき教室。

東京に住んだ後、色々な土地に移り住んだ。
鳥取、また東京、山形、山梨、茨城、最後にまた山形。

行く先々でたくさんの風景を目にし、たくさんの人々と出会ってきた。

一つの風景の記憶は、もっと具体的な記憶に結び付く。

山形ではたくさんの山を目にする。
遠くの山、近くの山、とんがった山、まるい山。
そのイメージは、かつて住んでいた場所で目にした、別の山のイメージと結びつく。
あの山を見た時、私はどこにいた?誰といた?その人と何をして、何を話し、何を考えていた?

ある人が言っていた。
「昔の事ならいくらでも思い出せるし、話す事ができる。」

一つの風景を記憶のうちから呼び覚ます時、その記憶とともに何か痛みのようなものが湧き上がってくる。

思い出した事に対して、現在の私は何も干渉できない。
宙ぶらりんの記憶を、ただぼんやりと眺める事しかできない。
それが哀しく、とても愛しく思う。

八頭こほり

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