個展"I Found You"に寄せて
生きていくことは痛みを伴う。
痛みとの関わり方は、逃れられない命題である。
肉体的な痛み、精神的な痛み、目に見える痛み、目には見えない痛み、その時だけの痛み、後からジワジワと心身を苛む痛み、痛いと気付いていない痛み、色々な痛みが私の中にある。
幼い頃、私はそれが痛みだと気付いていなかった。
なので、痛いと声を上げることも、痛みをどうにかしようと行動することもなく、人が水中で自然に息を止めるようにして、痛みと向き合うことなくただ時間を過ごした。
しかし、澱のように積もる痛みは、私の成長とともに歪みとなって表れ、ついにそれと相対せざるを得なくなった。
痛みを消し去ろうと更に自分を苛めたこともあったし、痛みから逃げようと自棄になることもあったが、一度生まれた痛みは癒えることなく私の中に燻り続けている。
絵を描くことは自分自身の心を見つめるのと同じことだ。私はずっと自分の痛みを描いてきたのだと思う。
自分の絵を描き始めた頃、痛みから生まれた苛烈な感情を画面に託した。
自分の鏡となったそれらの絵は、暗い色調で、描かれた人物の瞳は観る人をねめつけ、暗い心を宿していた。
そういうわけなので、少し前までは、今よりだいぶん独りよがりの、自己治療的な絵を描いていたように思う。それに同調してくれる人が一人でもいればよい、とぶっきらぼうに考えていた。
そうして自分のことばかり考えて続けていたら、新型コロナのパンデミックが起きた。
大ステイホーム時代の幕開けである。
それまで自分の中の痛みとずっと向き合ってきた私は、コロナ禍をきっかけに、じょじょに他者の内面を気にするようになった。
それまで私は、痛くて苦しくて、誰か早くなんとかしてくれ、私を見てくれ、助けてくれ、と独りよがりに喚いていたが、周りを見ると、同じように他の人たちも痛みを抱えつつ、彼らの人生を歩んでいるのだ。
さも痛くないように振る舞いながら。
みんな本当は痛かったんだ、と気付いた時、なぜだか自分の中の痛みをすんなりと受け入れることが出来た。
かつて描いてきた、相手をねめつけるような苛烈な瞳は、今やそうではない。
痛みを抱えた、かつての私を見つけた瞳だ。
その痛みを受け入れ、痛みとともに伴走する瞳だ。
そういう瞳をした人を、私の愛する風景のイメージの中に佇ませた。
絵の中の女性と目線を合わせてみてほしい。
彼女はあなたの瞳を見つめ、その奥にあるものを捉えている。
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