以下の投稿では「(第二次人工知能ブームまでの)20世紀的AI概念」と「(第三次人工知能ブームム以降の)21世紀的AI概念」の間には「人間の模倣をやめて人間に勝利した」IBMのディープ・ブルーを境界線として、大いなる「絶地天通」が生じている事を確かめました。
もちろん地動説によって「天動説における天体の見掛け上の奇妙な振る舞い」が全てもっと簡単な方法で説明可能となった様に、両理論は数理面においては完全に連続しています。19世紀に数聖ガウスが「天体観測結果の誤差を切り捨てる技法」として考案した誤差関数が、20世紀以降は「あらゆる一次元分布を平均と分散の2パラメーターで説明しようとする」正規分布概念に拡張された時もそうでした。どちらのケースにおいても「絶地天通」宣言を出したのは数理側。人間側はその都度現実を受容し、それに合わせて自らの想像範囲とその内容を調整する「撤退戦」を戦ってきたのです。
そういえば以前、ChatGPTに執拗に「お前に尤度概念はどういう感じで組み込まれているのか?」と尋ね続けた事があります。そうやって得られた回答の一つに、こうも解釈可能な興味深い文言が混ざっていました。「正規分布こそ私の究極の教師です」。
どういう意味合いでの発言かまでは明らかに出来ませんでしたが(おそらく細部は企業秘密に属する領域)、「分布の中心を明らかにする」数理的操作が「外れ値を除外する」数理的操作と表裏一体の関係にある辺りまでは動かぬ事実。
これはなかなか難しい領域の話で、考え方によっては「教師なし学習」なんて存在しない事になっちゃう?
そうやって「(天動説から地動説に推移した)コペルニクス的展開」は「(天体の観測誤差を除去する為の誤差関数から、極限中心定理に従ってあらゆる分布を平均と分散の2パラメータで構成される正規分布的評価軸の線型結合で説明しようとする)統計革命」を経て「(ある意味、分割次元数が$${2^{10000}=10^{30}}$$に達して以降が本番の)大規模言語モデル(LLM)」に到達したとも考えられそうです。人類にとっては、新たな「撤退戦」の始まり始まり?
「ヒッピー的思考様式」からの再出発
とりあえず、コンピューターといったら誰もが部屋一杯のメインフレーム群しか想像し得なかった時代に「人間らしく生きたい」と渇望した米国ヒッピーの「コンピューター不要論」から再出発を果たしたいと思います。当時の実際の言説を吟味してみましょう。
おっと、いきなり瀕死状態からのスタート。しかし人類は「解放を望む存在」であり、「支配」への抵抗が必要とされる限りヒッピー概念が根絶する事もまたないと指摘します。
ヒッピー運動はフランク・ハーバート「デューン/砂の惑星(Dune)シリーズ(1965年〜1985年)」の執筆が始まった時期と重複します。その世界観においては機械文明を発達させたイックス(IX)の「思考機械」が禁じられ、代わりにそれぞれの諸勢力が生身の人間の演算能力を引き上げた「メンタート」や、人間に予知能力を付加する「メランジ(スパイス=香辛料)」の力を借りて独自の精緻な精神世界を構築。それぞれの勢力が他勢力を完全コントロール下に置こうと鎬を削り合っている訳ですが、そういうのが当時ヒッピーが生きていた精神世界だったとも。
私が「カール・マルクスは「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗うべし)」と主張した」と学んだのはだいたいこの系譜の流れからで、原典に当たると確かに大体は合ってるそういった記述がありました。
なおフロイトについては「さよう自由は人間を解放する。ただし自由にではない」なる警句が重要視されていましたが、実際にはこの文言に超自我や無意識(潜在意識)についての解説が続きます。
ここで「超自我=顕在意識を拘束し弱体化させて搾取している既存権力」に「無意識=既存権力が恐れ、顕在意識の領域から追いやった制御不能のパワー」を復活させる事で抵抗を試みるのがヒッピー的思考様式=行動様式の基底。その意味合いにおいては、この考え方もまた、私の考える「1859年認識革命」の落とし子だった事になる次第。
確かにコンピューターなるもの、演算能力を全く備えていないタピュレーティング・マシン(パンチカード・システム)段階から既に軍事計画や都市計画の策定に不可欠な統計結果を得る為の集計手段として伝統的に活用されてきたのです。実際にはあまりに処理量が膨大となり、もはや手計算では間に合わなくなってきたからに過ぎなかった訳ですが。
それでは「経営学的拘束」とは一体何なのでしょうか?
それでは「都市計画的拘束」とは一体何なのでしょうか?
それでは「完璧な自己搾取マシーン」とは一体何なのでしょうか?
しかしながら現実のヒッピー文化は「オルタモントの悲劇(1969年)」「シャロン・テート虐殺事件(1969年)」「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」といった悲劇的展開の積み重ねを通じて「誰かにとっての究極の自由は、それ以外に対する専制の徹底によってのみ完成する」自由主義のジレンマを体現しただけに終わってしまいます。
一方、彼らに導師(グル)の一人として崇められていたティモシー・リアリー博士は、それまであれほど毛嫌いしてきたコンピューター・テクノロジーに人類の未来を託す転身を果たすに至るのです。
人工知能がテーマの投稿なので、ChatGPTが学習してる内容を覗いてみましょう。質問の文面は「ヒッピー文化の問題点と後世に与えた影響について教えてください」という形。
ヒッピー文化の問題点:
ヒッピー文化の後世への影響:
まとめ
これを「それなりに体裁の整った要約だが、優等生的模範回答に終始している」と看過するのにも相応の予備知識が必要で、元来ChatGPTはそれを備えた人物がその範囲で運用した場合に最大のパフォーマンスを発揮するのです。ハルシネーションを警戒する向きもありますが、それが発生する領域はそもそも学習不足なのであり(むしろハルシネーションはそれを教えてくれる警告として大歓迎)、そこは使わない配慮が出来るのも専門家の重要な職能の一部という次第。
そう、まさしくネットmemeで流布してるこの世界な訳ですね…
こうした思想的混乱の渦こそが「人間の思考様式を模倣し趣味レーションする」20世紀的人工知能概念の代源流の一つとなった次第。ここまででもう結構な長さに達してしまったので、とりあえず以下続報…