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【21世紀版フランス革命の省察6パス目】カール・マルクス当人の思想における「プロレタリアート」概念の終着地点。

なかなか「シィエスのフランス革命」本文の話に入れません。この本が「ブルジョワ革命論の終焉」について飲み触れ、カール・マルクスの学説がその歴史的役割を終えていく過程について一言も触れてないのは、まさしくこういう展開を回避する為だったのでしょう。

しかしながら、今回「シィエスのフランス革命」より得た知見を、これまで私が構築してきた世界観と整合させるには、このプロセスが欠かせません。

マルクスの目に映った「19世紀の革命」

以下の投稿で指摘した様に「(世界を変える為に)国王や教会の威信に捉われず、資本主義的拘束からも自由な新人類プロレタリアートが現れねばならない」なる信念を備えるに至った1840年代の青年マルクスですが、1848年革命前後の革命家としての実践活動を通じて「今はまだその時じゃない」なる確信を持つに至ります。これがそれまで主流だったドイツ哲学者や凡百の急進共和派活動家の多くが、玉砕したり忘れられたりして悲壮な最後を迎えるに至ったのに対し、ほとんど彼だけが生き延びられた理由の様なもの…

ここで重要なのが、同時に「封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始する」なる指針を定めた小冊子「共産党宣言(Manifest der Kommunistischen Partei,1948年)」も一時的に忘れ去られ、カール・マルクスのそういう急進共和主義者的側面が生前に掘り起こされる展開もまたなかったというあたり。そしてさらに「史上初の世界恐慌」1857年恐慌が勃発しても世界革命が始まらなかった事から「今はまだその時じゃない」という思いを一層強め、より自分の言説に気を付ける様になっていく訳ですが…それなら、その中間期「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte)」の頃の立場は一体どういう感じだったのでしょう?

皇帝ナポレオン三世の権力掌握過程については2010年代に一度まとめた事がありますが、概ねにおいてマルクスが観察して記録した内容と一致。

だからこそ、フランス人として同時代を生きたフローベールが「感情教育(L'Éducation sentimentale, 執筆1864年~1869年, 刊行1869年)」に活写した様な「混乱からの救済者として「反逆者」ルイ・ナポレオンがなし崩し的に皇帝に祭り上げられていく過程」に納得がいかず、驚くべき分量の罵詈雑言を「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の中に書き散らしてしまったとも見て取れる訳です。

弁護士は赴任した地方の炭鉱町でさんざん苦しめられたため、労働者を憎んでいた。いずれの採炭坑も、臨時政府の名のもとに、それぞれ勝手なことをデローリエに命じるのである。「それに、あの連中のやることときたら、まことに見あげたものでね。リヨン、リール、ル・アーヴル、パリ、どこでもそうさ。外国製品を締めだそうとしている製造業者に倣って、やつらはイギリス、ドイツ、ベルギー、サヴォワの労働者の追放を要求しているんだからな。頭の程度にしたって知れたもんだろう。王政復古のとき話題になった連中の同業職人組合にしたって、いったいなんの役にたったんだ?1830年にはこぞって国民衛兵に入ったわけだが、これを掌握するだけの良識すら持ちあわせていないじゃないか。48年の革命にしたって、その直後、またまた同職組合なるものがそれぞれの旗をかかげて現れただろう。しかも、自分たちの息のかかった民衆代表を、自分たちの利益だけを主張する民衆代表を要求したんだ。砂糖大根地区の議員が砂糖大根のことしか気にかけないのとおなじことさ」。

フローベール「感情教育(1869年)」

そうなってしまった理由についてもマルクスはかなり正確に見抜いてました。(シェイスも起草に参加した1793年憲法で想定した様な)本来の計画に従うなら、国民の教育レベルに合わせて選挙権の範囲を段階的に拡大していく予定になっていたのに、急進派に押し切られていきなり25歳以上の男性国民全員に投票権を与えた普通選挙を実施してしまったのです。

2月事件は、もともと選挙改革をめざしていた。選挙改革によって、所有階級そのものにおいて政治的特権をもつ者の輪をひろげ、金融貴族の独占支配を倒すつもりだったのだ。しかし実際に衝突が起き、民衆がバリケードに上がり、国民衛兵隊が消極的な態度をとり、軍隊が本気で抵抗せず、王室が逃亡すると、共和国は自明のもののように見えた。どの党派も共和国を自分の都合のいいように解釈した。プロレタリアートは武器を強引に手に入れていたので、共和国にスタンプを押して、社会的共和国であると宣言した。こうして現代の革命の一般的な内容が暗示されたわけだが、その内容は、今ある資材で、大衆が身につけていた教育水準で、与えられた事情や環境で、とりあえずすぐに実行できたあらゆるものとじつに奇妙なほど矛盾していた。

だから、どんな時期にも目にすることのないほど混乱したカラフルな絵柄が、目に飛び込んでくる。フレーズは舞い上がっているのに、実際は不確実で頼りない。どの時期よりも熱心に革新を指向するのだが、どの時期よりも徹底して昔のルーティーンが支配している。どの時期よりも社会全体が調和しているように見えるのに、社会の有象無象の構成分子のあいだの距離は、どの時期よりも深刻なのだ。パリのプロレタリアートが、自分たちの前に開けた大きなパースペクティブにふけり、社会問題について真剣に議論を重ねているあいだに、社会の旧勢力は、グループを組み、平静になって、正気に返っていた。そして大多数の国民を予期せぬ支えにできることに気がついた。農民と小市民である。彼らは、7月王政のバリアが倒された後、みんなで一挙に政治の舞台に飛び込んできたのだ。

カール・マルクス.「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」

ところで以前の投稿において、1840年代の青年マルクスが「フランス革命は個人の経済的欲求を解放した結果、政治への関心を失い(ロベスピエールら山岳派の)独裁を招いてしまった」と考え「個人的享楽の追求を許してくれる絶対王政に不満を抱かない」ビーダーマイヤー(権威に従順で反逆を思いつかないドイツ庶民)と重ねて考えていたらしい様子を紹介しました。

当時の状況を鑑みるに、1850年代の「ジャーナリスト」マルクスが、その考え方の延長線上で皇帝ナポレオン三世の権力掌握過程を理解したのも無理のない展開だったといえましょう。この引用にも「プロレタリアート」の文字が登場しますが、この著作におけるこの言葉は1840年代の著作で言及された「来るべき新人類」ではなく、実在する現実の政治的勢力、すなわち「赤旗」を掲げたオーギュスト・ブランキら急進共和派を指します。一方、ブルボン家やオルレアン家の再興を目指す王党派や教皇至上主義者(Ultramontanist)は、これに対抗して「白旗」を掲げたのです。その一方でフランス国旗トリコロールの最後の一色「青旗」だけは誰も掲げる事はなかったのでした。

憲法が、国民議会が、王朝の党派〔ブルボン派とオルレアン派〕が、青い共和派〔ブルジョワ共和派〕と赤い共和派〔民主派と社会主義派〕が、アフリカの英雄たち〔アルジェリア植民地戦争のカヴェニャック将軍、ラモリシエール将軍、ブドー将軍〕が、演壇の雷が、日刊紙の稲光が、文筆界が、政界の名声と思想界の名声が、民法と刑法が、自由・平等・友愛が、1852年5月第2〔日曜日〕が──つまり、あらゆるものが消えたのだ。その敵にさえ魔法使いと呼ばれなかった男の呪文の前で、幻影のように。〔

カール・マルクス.「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」

マルクスはこの様に嘆き、皇帝ナポレオン三世を弾劾しましたが、現実の展開は真逆。フランス革命時代から穏便共和派は「フランス革命調和の象徴」三色旗を掲げてきましたが、やがてこれに皇帝ナポレオン三世が誘致したポルトガル系ユダヤ人やユグノーの産業資本家、資本主義社会に難なく適応した穏便派、新興産業階層などが(「目につく出釘は叩く」フランス庶民の伝統を欺いて)密かに合流し「不可視の新興支配階層」を形成したのが第二帝政時代(1852年~1870年)といわれ、まさに彼らこそがフランスへの産業革命導入を牽引したのです。

「権力に到達したブルジョワジー」史観の登場

こうしてフランス近代史からは国際的にマルクスの考えが駆逐され「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」史観が取って変わる展開を迎えたのです。
梅津博道「ナポレオン三世の経済政策」

経済面では、いわゆる「二百家」の名前が挙がります。

1800年、ナポレオン・ボナパルトがフランス内の貨幣統一を目指して接絵立したフランス銀行(Banque de France)は、以降株主総会への出席者が出資額の上位200人だけに許され、いわゆる200家族に支配された。フランス銀行は統計上4万名の株主がいたが、大株主は彼らであり、そのうち84人が各自100株以上を保有していた。ロチルド、マレMallet、オタンゲルHottinguer、ヴァンデルWendel(フランス鉄鋼委員会の主催者だけでなく、ドイツ帝国議会議員のアンリも同家の人材である)、法人株主は有名どころでモエ・エ・シャンドンしか例に出せないが、50から100株保有するものでは保険会社が17社もあった。200家族は毎年の株主総会で15人の理事を選んだが、常連はロスチャイルド、マレ、ミラボーMirabaud などであった。当初15名の理事のうち5名は、製造・加工業者・商業者から選ばれると明確に規定された。5席はヴァンデル、デュシュマン、ローヌ・プーラン、タナルドン、そしてパペトリ・ダルブレィのパトロンが占めた。枠外ではスエズ運河会社のヴォギュエも理事となった。

彼ら200家族の個人銀行を特にオートバンクHaut Banque と呼ぶ。第二帝政以降は足跡のたどれない者が多くなり、結果として少数の生き残りがヘゲモニーを形成したので、よく分からない過程の部分は大不況に淘汰されたものと考えられている。1945年12月2日の立法はグラス・スティーガル法のような側面をもっており、3種の事業形態を法定した。そこでオートバンクは3種から選ばなければならなくなった。ユグノー系オートバンクは大部分が預金銀行になることを選んだ。ユダヤ系のものは興業銀行となったが、中にはロスチャイルドやラザード、それにドレフュス等がふくまれていた。

1945年12月法はオートバンクの事業分離だけでなく、フランス銀行の国有化を決定した。理事会は、総裁と2名の副総裁と12名の理事のほか、2名の監査役で構成されている。総裁・副総裁は総理大臣により任命される。理事のうちまず4名は、不動産銀行・預金供託金庫・復興金融金庫・クレディアグリコルの理事長または総裁が職権により任命される。次に7名は、商業・工業・農業・労働・海外領土・外国におけるフランスの権益、一般経済団体をそれぞれ代表する者が、関係大臣の推薦に基づき大蔵大臣によって任命される。そして残りの1名は、フランス銀行職員のうちから無記名投票により選任される。監査役は大蔵省高官から選任される。

復興金融金庫=クレディ・ナショナルは、第一次世界大戦の戦後復興を目的として1919年に創設された準公的金融機関である。債券を発行して資金を調達し戦災被災地等に復興向けの融資をおこなっていた。第二次世界大戦後は米ドルで受け取った借款の見返り資金の運用も委託された。1995年12月に政府がフランス貿易銀行の民営化を決めた。フランス貿易銀行の株主は、フランス銀行(26.65%)、預金供託金庫(24.65%)、クレディ・ナショナル(15.77%)であった。1996年にクレディ・ナショナルはフランス貿易銀行の全株式を取得、1997年1月にクレディ・ナショナルはナトゥクシスに社名を変更、ナトゥクシスは2006年、預金供託金庫傘下のイクシスと合併し、ナティクシスとなった。ナティクシスは年金積立金管理運用独立行政法人の運用委託先となったり、最近ではブロックチェーンの共同開発にも参画したりしている。

上掲Wikipedia「フランス銀行」

文化的には価値観統合の結果「スタイリッシュでブルジョワ的俗物世とは程遠いファッション・センスを表す言葉」として英国でダンディズム(Dandyism)概念が登場した様に出自不明の「シック(Chic)」概念が定着。

いわゆるアバンゲール(Avant-guerre=戦前派)の精髄とされるベル・エポック(Belle Époque)文化こそ、その果実。二つの著名な作品が後世に残されました。まさに、ここでいう「不可視の新興支配階層」の日常に取材したマルセル・プルーストの「失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu, 1913年~1927年)」。その一方で、彼らの繁栄を面白く思わないフランス庶民のルサンチマンを吸い上げて商業的成功を納めたモーリス・ルブラン「泥棒紳士アルセーヌ・ルパン」シリーズ(1905年~2012年)」。この両方同時に俯瞰しない限り、この時代独特の雰囲気は完全には浮かび上がってきません。

一方、カール・マルクス自身は、どうやら彼の待望する「国王や教会の権威ばかりか資本主義的誘惑からも解放された新人類としてのプロレタリアート」は、1857年恐慌以降、ドイツばかりかフランスにも現れないと考える様になり「資本主義かがより一層進んだ」イギリスに最後の望みをつないだ様です。

物理学者は自然過程をこういうふうに観察する。すなわち、自然過程がもっとも的確な形態で、攪乱的影響によって混濁されることもっとも少なく現われるばあいをとるか、あるいは可能なばあいには、実験を、過程の純粋な進行が確保される条件のもとで、行なうのである。私がこの著作で探究しなければならぬものは、資本主義的生産様式であり、これに相応する生産諸関係および交易諸関係である。その典型的な場所は、今日までのところイギリスである。これが、私の理論的展開のおもな解明になぜイギリスを用いるかの理由である。

カール・マルクス「資本論」

ならば、故郷ドイツの置かれている状況は?

1848年以来、資本主義的生産は急速にドイツで発展した。そして今日ではすでにその山師活動も大いに行なわれている。しかしながら、わが国の専門学者にむかっては、運命は、まだいい顔をしていない。彼らが経済学を、平らな気持で研究しえた時期には、近代的経済関係はドイツの現実にはなかった。これらの関係が成立したときには、もはやブルジョア的な視野の中で、とらわれずに研究することを許されない事情になっていた。経済学がブルジョア的であるかぎり、すなわち、資本主義的秩序が歴史的に経過的な発展段階としてでなく、逆に社会的生産の絶対的な最後の形成物として理解されるかぎり、経済学は、階級闘争がまだ潜在的である間だけ、またはただ個々の現象に現われている間だけ、科学としてとどまることができるにすぎない。

カール・マルクス「資本論」

しかしながら、彼が期待した様な歴史的展開、すなわち「国王や教会の権威ばかりか資本主義的誘惑からも解放された新人類としてのプロレタリアート」が誕生する事態は、やはりイギリスでも起こらなかったのです。それどころか、実際に起こったのは1793年フランス憲法に刻印された「シィエスの計画」に沿った内容。そしてそれは日本においても同様だったのです。

「シィエスのフランス革命」まだ読んでる途中なのですが、そこでシィエスが目指したとされるメリトクラシー(人々がどの様な身分ないし社会集団に属するかでなく、個人としてどの様な能力を持つかという事によって評価される社会や集団のあり方)なる概念、エドマンド・バーク「フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France,1790年)」や、サン=シモン「産業階級の教理問答(catechisme des Industriels,1823年〜1824年)」の内容とも通底してくる部分がある話?

「21世紀におけるフランス革命の意省察1パス目」

やっと、一番最初にしたこの話に戻ってこれた? そんな感じで以下続報…


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