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「書く」という冒険(古賀史健さんの『取材・執筆・推敲』をたどる)1/3


2021年5月、私は古賀史健さんの『取材・執筆・推敲』を読み終え、この「教科書」をまとめたノートを完成させました。
まだ読んでいらっしゃらない方に向け、少しでも参考になればという思いで、今日から全3回に分けてこのノートを公開し、『取材・執筆・推敲』の紹介をしていきたいと思います。

1 「誰かをよろこばせたい」と願う、すべての人へ。(『取材・執筆・推敲』ガイダンスより)


「ライターとはコンテンツをつくる人」「コンテンツとは人をエンターテインするもの」。

これは、古賀史健さんの『取材・執筆・推敲』に記された「ライターの定義」です。
「ライター」とは誰かによろこんでもらうものをつくる人であり、「書く」とはそのための「手段」。
そうした視点で「ライター」をとらえた時、これは「誰かをよろこばせたいと願うすべての人」に通底する話ではないか!と、本当にびっくりしたのです。

ライターとは、「それを語る必然性を持つ人」に「その話を聞いて驚くであろう読者に向けてしかるべきことを語って」もらい、そして「その語ってもらったことを読者に伝わるように翻訳する」存在のことを言うのです。

2 ライターとは、「ちゃんとわかろうとしたこと」だけを書く存在。(『取材・執筆・推敲』第1章から第3章までより)


「取材」とは、「それを語る必然性を持つ人」に出会い、「その話を聞いて驚くであろう読者に向けてしかるべきことを語って」もらうことをいいます。

この「取材」にあたって大切なこと。
それは、相手の方がこれまでどのような経験を重ね、そこからどのようなことを思い続け、その果てに今どのようなことを「芯」として持つに至ったのかを「知ろうとする」こと。
私は古賀さんのお話をそのように理解しました。

これは、人間としてのあるべき姿を語った精神論ではありません。おもしろいものを書くには相手の文脈を「知ろうと」したほうが断然いいという、技術の話なのです。

(1)書いたものがつまらないのは、「わかろうとすること」をなめているから。(『取材・執筆・推敲』第1章)


古賀さんは「つまらない」ものを書くライターについて、「読者としての自分が甘すぎる」のだと述べています。取材対象の「根底にあるもの、奥にあるもの、あるいは裏側にあるものを、まるで見ようとしていない。なにもわかっていないのに、わかったつもりで書いて(p.54)」いることに加え、自分の原稿の詰めの甘さを「読む」こともできていないのだと。

確かに、「自分の目の前の相手が、どのような経験を重ね、そこからどのようなことを思い続け、その果てに今どのようなことを芯として持つに至ったのか」に思いを馳せ、自分なりに考えたことを伝えてみるという一連のことは、「こんなもんでしょ?」となめていてはとてもできないだろうと私も感じます。
ライターの仕事とは、締切とオーダーに間に合うように、自分に都合のいいパーツを適当に拾い、それらをそれっぽく切り貼りするものでは決してないのです。

古賀さんはまた、「技術に関係なく、そこに投じられた時間も関係なく、ただただ「雑に書かれた文章」はすべて悪文なのだ(p.74)」と、はっとすることも書かれていらっしゃいます。悪文には必ず違和感が伴うのだと。そしてその違和感の正体は「雑」さにあるのだと。

(2)なめないために、どうしたらよいか。(『取材・執筆・推敲』第2章)


「なめる」「雑になる」を防ぐために、古賀さんは、「聴く」ということを教えてくださっています。

「聴く」ことは、これからお話を伺おうとする相手がこれまでどのような経験をし、どのようなことを考えて今に至ったのか、そのことにあらかじめ思いを馳せ、相手がどのような方でいらっしゃるのかについて、「仮説」をつくってみることから始まります。

ここで重要なポイントになるのは、この「仮説」は相手に突きつけるためではなく、自分の内側にとどめるためだけにつくるのだということ。
相手にお話を伺う際は「仮説」を白紙にし、相手の方が「これまでどのような経験をし、どのようなことを考えて今に至ったのか」をゼロからつかみ直す必要があるのです。

わざわざ「仮説をつくっておきながら白紙にする」のはなぜか。
相手のお話を伺う前に「仮説」をつくるのは、相手への関心と敬意を最高の形で育てることができるから。「白紙」にするのは自分に都合のよいことを相手に言わせようとする「傲慢さ」を防ぐため。

これは、「相手に敬意を持とう、傲慢であることをやめよう」という戒めの話ではありません。おもしろいものを書くには「聴く」技術を持ったほうがいいということなのです。
事前に「仮説」をつくっておくことで、本取材において相手の話をよりしっかりと聴くことができ、さらに、「それは○○ということでしょうか」「その一方で△△ということもあると思いますがいかがでしょうか」などと、相手の真意を確かめる質問(=「訊く」)も浮かんでくるということなのです。

このように「聴く(+訊く)」ことができれば、あらかじめ自分が抱いていた仮説と実際との間にズレや重なりを見つけることができます。この「ズレや重なりの発見」こそ「驚く」ということに他ならず、この「驚き」を読者と共有することができて初めておもしろい原稿になるのです。

(3)ちゃんとわかって、ようやく「驚ける」。(『取材・執筆・推敲』第3章)


相手はどのような文脈を持って今に至っているのか。
相手はどのような表情で、どのような語り口調で、どのような仕草をしながら語るのか。
それらをよく観察し、相手の話によく耳を傾け、ひとつひとつに驚くこと。
これが相手を目の前にして行う「本取材」の大原則です。

「取材」はこれで終わりではありません。
本取材を終えた後も、相手や相手の語ったことを反芻し、調べ尽くし、考え尽くし、「対象を自分のことばでつかまえる格闘(p.127)」をし、ごまかすことなくちゃんと「わかろうとする」ことが必須になります。

ここまでやってようやく、読者とともに「驚く」ための、「取材」という下地が完成するのです。

第2回へつづく)

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