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「書く」という冒険(古賀史健さんの『取材・執筆・推敲』をたどる)3/3


2021年5月、古賀史健さんの『取材・執筆・推敲』を読み終えました。
この本にどのようなことが書かれてあるのかを紹介していく全3回の、最後の回になります(よろしければ、これまでの1回目2回目もご覧ください)。

4 「コンテンツ」をつくる。(『取材・執筆・推敲』第8章から第9章までより)


推敲とは、過去の自分が書いた原稿を読み返し「あなたはなぜこれをこのように書いたの?」「違う書きかたをしなかったのはなぜ?」などと思いつく限りの質問をぶつけ、「コンテンツ」になっていない部分を発見し容赦なく切り捨てることをいいます。

(1)「わたし」の痕跡は、コンテンツの雑味でしかない。(『取材・執筆・推敲』第8章)


私の考えや思いというのは、「コンテンツ」をつくる上での触媒に過ぎません。
触媒がなければ「コンテンツ」はつくれませんが、触媒そのものは「コンテンツ」には不要なのです。

触媒を最後まで機能させ切ること。
そのためには、自分自身に向けて「思いつく限りの質問をぶつけ」、その答えの一つひとつに耳を傾け、「わかった」と思い込んできたことに嘘やごまかしがないか、引用先を明記しないといった不正がないかなどを念入りに確認し、誰に対しても恥じることのないものへと仕上げていく必要があります。

この「問い尽くし」には、過去の自分が書いたものを「今の自分と切り離す」さまざまな工夫も必要だと古賀さんはおっしゃっています。
この工夫にはまず、書くという作業を離れて行う「音読」、過去に書いたものと物理的な距離を置く「一日寝かせ」や「縦書き/横書きの変更」「文字の大きさの変更」、そしてこれらの作業をしたのちに紙に落とし込んだ原稿をペンを片手に一文字ごとに確認する「ペン読」の、一連の作業が挙げられています。

そしてこの作業を行うには、「読み手」としての自分が過去の自分という「書き手」を上回ろうとする気概が必要であり、この気概を具体化するには、原稿の要点を箇条書きしてその骨格を露わにする(骨格に矛盾や違和感はないかを確認する)ことや、「迷ったら捨てる」の原則を掲げることが有効だと古賀さんはおっしゃっています。

(2)原稿から「わたし」の痕跡が消えたとき。(『取材・執筆・推敲』第9章)


古賀さんは「プロ」のライターの定義に「編集者がついていること」を挙げています。
ここでいう「編集者」とは、自分に原稿を書いて欲しいと依頼し、自分の書いた原稿に「最高の読み手」として「フィードバック」をくれる存在のことを言います。自分に欠けている視点を持ち、過去の自分の書いたものを「推敲」してくれる、ありがたい存在。

プロのライターは、編集者が伝えてくる「なぜこのように書かないのか?」「こういう具合に書いたほうがよいのではないか?」といった「フィードバック」に対し、「この人はどういうことを考えてこのようなことを伝えてきているのだろう?」「この人がこのように言うのはなぜだろう?」「この人の目に自分の原稿はどう見えているのだろう?」などと考え尽くし、それを自分の中で理解します。
プロのライターはこの「理解」によって、「あらたな推敲の視点」を持つのです。

このようにして、あらゆる視点や技を駆使して行われる「推敲」は、なにをもって完了したと言えるのか。
古賀さんは「原稿から「わたし」の跡が消えたときだ(p.466)」とおっしゃっています。
「苦しんで書いた跡、迷いながら書いた跡、自信のないまま書いた跡、強引につないだ跡、いかにも自分っぽい手癖の跡などがすべて消え(p.467)」たところでようやく推敲が終わり、原稿が書き上がるのだと。

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